前回の続きです。
今回、百間滝詣りにあたって問い続けた自己問答で、三つの答えがでました。
ひとつ目は、「ただ事実だけを伝えること」
ふたつ目は、「好奇心をもたらさないこと」
三つ目については最後にお話ししたいと思います。
御山のために、たったひとり
今回百間滝について自己問答するきっかけになったのは、やはり強力の倉本さんの存在でした。
倉本さんとは

倉本さんはもう10年以上の間、百間滝への道をたったおひとりで整備してくださっている方です。信者さんの荷物を担ぐ強力も務められています。
倉本さんについては、以下の記事をご覧ください。
質問!御嶽山の強力(ごうりき)って何ですか?!
御嶽山の強力、倉本豊さんに同行密着!2025前編
御嶽山の強力、倉本豊さんに同行密着!2025後編
百間滝へ詣るにあたり、倉本さんへご挨拶しました。それは、「百間滝へ詣る」という報告もあり、そして「現在の状況」の確認もありました。

これまで、百間滝詣りは6月に行われていましたが、今年は7月でした。例年だと倉本さんは5、6月と整備や強力のお仕事で百間滝へすでに詣られているはずでした。(いざ御嶽山の最大秘瀑【百間滝】滝行へ!)


それもあり、現地の情報をお伺いしようとご連絡しました。

倉本さんの言葉と想い
なんと倉本さんは今年は体調を崩されていたそうで(めったにない!)、今年はまだ百間滝へ入っていないとのお話を知りました!
今年は滝までの道を整備できていないので、苦労されると思います。どうかお気をつけて。
道の整備に関して昔は協力者もいたようですが、長くは続かなかったそうです。
それ以来倉本さんは、危険と隣り合わせになりながらたったお一人で、しかも誰かに頼まれるでもなく無償で整備を続けて来られました。見返りも何も求めず、ただただ「御山のために」「百間滝へお詣りしたい方々のために」そんなお方です。

私ももういい歳なので、この先もどうなるか分かりません。
同じように整備に入ってくれる方もいるようですが、あれは簡単に続けられるものではありません。整備して下さることはありがたいですが、続けなければ意味がありません。そして「責任もって続けなさい」と私から言うことも頼むこともできません。それだけ過酷だからです。
生半可な気持ちで整備に入ることは、お山にとってもその人にとっても辛い結果を招きます。
このお話を聞いて、私は心が傷みましたが、同時に自分には何もできないと感じました。

「じゃあ有志を募って整備しましょう!」「〇〇さんに頼みましょう!」と言える話ではない。もっと複雑で、根深くて、深刻なお話だと思いました。
そうして私は、「何のために百間滝へ行くのだろうか?」と改めて考えることになり、自己問答を始めるきっかけになりました。
倉本さんがおっしゃるように、このまま道を整備できなくなって、道がなくなってしまったとしてもそれは仕方がないと心のどこかで感じています。そうはならないでほしいと願いつつも、気持ちだけで何とかなることではないからです。そして百間滝に責任を負うような力は、自分にないことを分かっています。百間滝の維持、発展を自分の使命として安易に関わるのは、傲りとさえ思っています。
随行を断られた話
実は昔、別のタイミングで、百間滝詣りを行う別の御嶽講の先達さんに随行をお願いしたことがあります。その時私は「現在の御嶽信仰について調べており、記録に残したいです。御嶽信仰をこの目で確かめ、学び、伝えたい、後世に残したいという気持ちがあります」と伝えました。
先達の重い言葉
しかし驚くほど丁寧に断られました。

「あなたの気持ちはよくわかるし、一生懸命取り組んでいることも聞いています。だけど百間滝や御嶽講の存在を、無理に残そうと私たちは思っていません。いずれ私たち御嶽講がなくなってしまっても、それは仕方がないと思っています」

「もしあなたが純粋に、御嶽信仰の心でへお詣りしたいと言うのであれば、改めて同行を許可します。しかし、百間滝や御嶽信仰を伝え、残そうと言う目的で同行を求められるのであれば、そこはお断りさせてください。申し訳ありません」

この時は「随行を断られて残念」という気持ちよりも、
御嶽信仰について「このまま自分たちが時代と共に廃れていくのは仕方がない、逆らえないことだ」と言われたようで、多少なりともショックを受けたのを覚えています。少し寂しい気持ちになりました。

改めて分かったこと
しかし、今年になって新たな気づきがありました。
私という部外者を百間滝へ連れて行き、見学させる事に対して、リスクを感じたのたろうと思いました。あの時の先達さんは、今回の私と同じ気持ちだったのかもしれません。面識はそれまでもありましたが、やはり今後の百間滝の在り方について警戒されたんじゃないかと思いました。

そしてもう一つ重要なことですが、「真剣に百間滝に向き合いたい」と言う気持ちがあったんではないでしょうか。部外者を連れて行ったり撮影されると、修行に集中できない方がいたかもしれません。ツアー的な要素が入ってしまい、意識が散漫になってしまうのを避けたかったのだろうかと改めて感じました。

あの先達さんの言葉を受けて、私は御嶽信仰の未来について、これまで少し後ろ向きに感じていました。しかしあの方は、今現在の信仰心を大切にし、百間滝への心のあり方を貫いていたんだなということに、今回改めて気づかされた気がします。
自分の在り方について
残すか残さないか
残すか残さないかという問答の答えは出ていませんが、実際、滝行の写真を撮影してご提供すると、とても喜ばれる場合が多いです。やはり形に残すことは大切です。そして誰にでもその場所、その時の様子を伝えることができる事は、現代の強みでしょう。

無理に記録を残そうとしてはいませんが、もし
残して欲しい。
伝えて欲しい。
撮影をしてほしい。
取材をしてほしい。
そのようなご希望があれば喜んで力になりたいと思っています。その際は、決して誇張することなくありのままを伝えるつもりです。

逆に、「残さなくていい」「撮らないでほしい」というお言葉もとても貴重です。そのようなお気持ちを聞かせてもらえるだけでも、私にはとてもありがたいことです。その想いはしっかり汲み取りたいですし、そのような考えがあると言うことを残したいと思います。信仰に関するさまざまな想い、すべて大切です。

三つ目の答え
自己問答を続ける中で、自分自身の立ち位置についても考えました。
そこで出た三つ目の答えは、自分の存在は“無”であることでした。
御嶽山について語る私自身は何者でもなく、ただ「無」でありたい。それが今回の百間滝で分かった三つ目の答えです。御嶽山にとって、プラスでもマイナスでもなくゼロ地点、“無”に私はいたいと思っています。
もし御嶽山の魅力、御嶽山の信仰について伝え残すことができたなら、それは御嶽山自身が素晴らしいからだと思っています。
ただ、御嶽信仰は複雑ですし、どうしても霊山というとハードルが上がったり、「別世界」のように感じる方が多くいます。私はそれらをなるべく分かりやすく、身近に伝えたいです。
しかしそれにあたって、私自身を評価されることは望んでいません。私自身の存在は必要ないと思っています。有名になりたいわけでもないです。私は何者でもないし、何者かになりたいわけでもないんです。

問い続けて分かったこと
私が尊敬する方々は、決して自らを主役として考えていません。自分のことは驚くほど二の次、三の次です。見返りも望まないし、一切目立とうとせず、ただただ御嶽山のために生きてる方達のように感じています。

そんな方達を見ていると、大事なのはお山に向き合う心で、決して自らの欲を満たすためにお山にいてはいけないなと実感します。(もちろん生きて行くためには仕事をしなければいけませんから、ただ無償を褒め称えているわけではありません)

御嶽山のことをただひたすら伝えたい。御嶽山の凄さを知ってもらいたい。


御嶽山のために頑張っている人を応援したい。そのために私は活動しています。
今回の百間滝詣りで、自分に問い続けて分かったこと。
それは、
ひとつ目は、「ただ事実だけを伝えること」
ふたつ目は、「好奇心をもたらさないこと」
みっつ目は、「自分の存在は“無”であること」
特にひとつ目とみっつ目は、今回の百間滝に限った話ではなく、このブログそのものの理念なのかもしれないと思いました。

こんな私を応援してくださる方々のためにも、今後も励みます!よろしくお願いします!
最後に今回もお誘いくださった大鐘龍昇先達にお礼申し上げます。
次いで、昨年からご一緒の鬼頭祥寛さん、早川浩詮さん、いっとくさん、新田さん、再会できて嬉しかったです。そして、御嶽行者の山本円郁さん、細やかなお気遣いをいつもありがとうございます。
併せて遠く関西の地からお越しの、古薗祐光さん、新保導龍さん、藤原一晋さん、ご一緒させていただき光栄でした。
みなさま、ありがとうございました。また御山で会えるのを楽しみにしております。


