普寛行者の弟子シリーズ3人目は、明岳院広山です。
普寛行者の一番弟子ながら若くして亡くなった圓城院泰賢と、長生きして数々の功績を残した金剛院順明、この二人とならぶ重要人物が明岳院広山です。
普寛行者の優秀な弟子①泰賢行者とは何をした人?
普寛行者の優秀な弟子②順明行者とはどんな人物?
広山行者は何をした人?
まずは広山行者の特徴をリストアップします。
- 普寛行者の御嶽山第一回の登拝で中座を務め、御嶽山座王権現を降臨させた
- 本名を和田孫八といい、普寛行者が亡き後に戒名した
- 【三笠山神社 / 御嶽神社 / 八海山神社】の並びを作った
- 初代・普寛講(高砂講)の開祖である
- 金剛院順明と共に普寛講の普及に務めた
- 儀覚行者の師である
どれもハズせない情報です。
経歴
明岳院広山の生年月日は不明なので、経歴として書ける情報は少ないです。
| 西暦 | 年号 | 普寛行者 | 明岳院広山 |
|---|---|---|---|
| 1731 | 享保16年 | 生まれる | |
| 1792 | 寛政4年 | 御嶽山開山 (61歳) | 同行 (30歳〜?) |
| 1797 | 寛政9年 | 高砂講 設立 | |
| 1801 | 享和元年 | 普寛入寂70歳 | |
| 明岳院広山へ戒名 | |||
| 三笠山と八海山の並びに変更 | |||
| 1811 | 文化8年 | 儀覚行者と出会う | |
| 1818 | 文政元年 | 順明と共に 武居氏へ抗議・交渉 | |
| 1831 | 天保2年 | 入寂 |
残念なことに、絵図もないためどのようなお方だったのかわかりません。さらに王滝村の里宮近くに、霊神碑があるようですが、探し当てるにはいたっておらず、提供できる資料がなくて申し訳ないです。
中座第1号とは?
30歳のころに普寛行者の弟子となったそうです。このころ広山さんは行者ではなく一般人で、和田孫八という名前でした。修験道は、帰依(出家)の必要がないということが、改めてわかりますね。
(修験道の開祖、役行者も生涯在家のままで過ごしています)
和田孫八は普寛行者が亡くなった後に、出家して明岳院広山へと戒名しました。
そんな明岳院広山(和田孫八)も、圓城院泰賢や金剛院順明と同じく、普寛行者の御嶽山第一回目の登拝へ同行しています。
重要なのは、広山は普寛行者の御座儀式において中座を務めたということです。
御座については御嶽講の儀式・御座(おざ)拝見の感想は!?強力取材番外編
中座とは、神下ろしの儀式である御座において、神さまの憑代となる役割のことを指します。対して、前座は神さまを下ろす役割で、普寛行者が担いました。
このときに【御嶽山座王大権現】が明岳院広山(和田孫八)に降臨したのが御座の始まりです。
明岳院広山(和田孫八)は、
御座で中座を務めた第1号であり、
【座王】という御嶽山の神格が誕生した時だった!
三笠山と八海山のならび
続いて、明岳院広山が描いたと思われる御影図の紹介です。
(「御嶽山王滝口 信仰資料拝見記」王滝口 御嶽神社/御嶽教滋賀大教会より)
以前、昔の御嶽山信仰を描いた【御影図】とは?でも取り上げました。

上の御影図に描かれているのは、
【三笠山刀利天宮/御嶽山座王大権現/八海山堤頭羅神王】の三神です。

次に上の写真にご注目ください。
もともと、普寛行者が位置付けていたのは
【意波羅山大権現/御嶽山座王大権現/武尊山大権現】でした。
順明行者が、
【意波羅山大権現/御嶽山座王大権現/八海山堤頭羅神王】へ変更しました。
武尊山はなぜ御嶽山から消えたのか!?
さらに明岳院広山(和田孫八)が、
【三笠山刀利天宮/御嶽山座王大権現/八海山堤頭羅神王】へ変更しました。
これによって、御嶽山は今のカタチになったんです。


これが今の御嶽山でも信仰されている【三笠山神社 / 御嶽神社 / 八海山神社】の原型になります。
順明行者とともに
明岳院広山は初代・普寛講である高砂講の開祖としても知られています。御嶽講の始まり、初代・普寛講とは?①高砂講
生年月日の不明な明岳院広山ですが、おそらく金剛院順明と同世代と思われます。
広山と順明は共に長く活動し、王滝村の普寛講発展のために尽力しました。
文政元年(1818年)に、2人は黒沢村の武居家へ直接抗議し、「御嶽座王権現」の使用を認めてもらっています。
(くわしくは黒沢と王滝)
儀覚行者との尊い出会い?!
最後に重要なのは、儀覚行者との出会いです。
文化8年(1818年)明岳院広山が50歳の頃、御嶽山の登拝で、尾張の儀覚行者と出会いました。儀覚行者は43歳でした。
儀覚行者は、明岳院広山に感銘を受け、弟子となりました。彼が、儀覚行者へ御嶽山のイロハを教えたと言ってよいでしょう。
明岳院広山に弟子入りした儀覚行者は、尾張の地にも御嶽講を発展させようと布教し、宮丸講を立ち上げました。これが後の覚明講へとつながる話は以前も紹介しましたね。
御嶽講の空白?覚明講はいつできた?❶-元祖系-
明岳院広山と儀覚行者の出会いは、覚明講における重要なターニングポイントであると思います。
今は当然のように、覚明行者の生誕地である尾張に覚明講がありますが、この二人が出会わなければ、儀覚行者は宮丸講(後の元祖・覚明講)を立ち上げなかったかもしれないからです!
二人は、普寛行者と覚明行者を繋ぐ重要人物であり、二人の出会いは非常に尊いものであると感じています。
参考文献:
「木曽御嶽山案内記 神鳥の声」和邇御嶽山
「御嶽の歴史」(生駒勘七)
「木曽御嶽信仰」(菅原壽清)
「御嶽山王滝口 信仰資料拝見記」王滝口 御嶽神社/御嶽教滋賀大教会

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