石板『阿波ヶ嶽の由来』解読!

御嶽山の信仰

前回、遠い四国である徳島の阿波に御嶽信仰が伝わった経緯をお話ししました。

  1. 儀覚行者ぎかくぎょうじゃと阿波の藍職人が影響しあった
  2. 寿覚行者じゅかくぎょうじゃ儀覚行者ぎかくぎょうじゃの弟子であり、福寿講を立ち上げ、西開行者さいかいぎょうじゃを窮地から救った
  3. 西開行者さいかいぎょうじゃは、寿覚行者じゅかくぎょうじゃに救われ、御嶽信仰を四国に広めた(太祖福寿講たいそふくじゅこう
  4. 西覚行者さいかくぎょうじゃ西開行者さいかいぎょうじゃの後を継ぎ、御嶽山の白川神社を四国へ勧請(分霊)した

おおかたの登場人物が出揃いましたので、今回は『阿波ヶ嶽あわがたけの由来』と彫られた石板せきばんの解読に移りましょう!

石板には何が書いてある?

では、さっそく8合目の阿波ヶ嶽あわがたけ石板せきばんまでやってきました!
前回紹介した西覚行者さいかくぎょうじゃが登拝していた頃のことが、石板せきばんに書かれていました。

いったい何が書いてあるでしょう?

以下が、写したものです。

昭和46年8月吉日建立

難しいので意訳!

そのままだと難しいので意訳してみました。

文久元年(1861年)に八合目で西覚行者さいかくぎょうじゃ神託しんたくを受け、翌日、
頂上の御座おざにて、中座なかざ明寛行者めいかんぎょうじゃ開道行者かいどうぎょうじゃふくめた4人にそれぞれ神さまが下りました。
〔芝原村林左衛門、小塚村佐喜、髙瀬村徳蔵(明寛行者めいかんぎょうじゃ)、髙原村喜代ニ(開道行者かいどうぎょうじゃ)〕
明寛行者めいかんぎょうじゃには国常立尊くにのとこたちのみこと開道行者かいどうぎょうじゃには白川権現しらかわごんげんが現れて、
西開行者さいかいぎょうじゃ西覚行者さいかくぎょうじゃ功績こうせきにより、八合目を阿波の行者に渡す」
勅命ちょくめいが下りました。
これをを黒沢神社の武居神主たけいかんぬしに告げ「神勅しんちょくそむくわけなし(反対する理由がない)」
と許可され、奉仕活動ほうしかつどうののちに、この地は阿波ヶ岳あわがたけと呼ばれるようになりました。

つまり西覚行者さいかくぎょうじゃに、
「この八合目を阿波の霊場にしなさい」というお告げがあって、
現在8合目は【阿波ヶ嶽あわがたけ】という名の、徳島の一大霊場になっているというわけです。

前回紹介した、西覚行者さいかくぎょうじゃが白川神社をお迎えした話とおおむね同じだと思います。こちらは文久元年(1861年)のお話とあるので、一年ずれてはいますが(文久2年だった)誤差の範囲内でしょう。

このことから、8合目には西開行者さいかいぎょうじゃ西覚行者さいかくぎょうじゃが「西国開基さいごくかいき」として祀られているんです。

全文ふりがな付き

以下全文を載せています。
ふりがな付きで改行して読みやすくしてみました。どうしても読めなかったり解読できない漢字がありましたが、ご容赦ください。

阿波ヶ嶽あわがたけの由来
文久元年ぶんきゅうがんねん御嶽山おんたけさんのおり八合目御小屋おんこやおい西覚行者さいかくぎょうじゃとうと神夢しんむこうむ

翌日御頂上おんちょうじょうおいて 御賓座
中座なかざ芝原村しばはらむら林左衛門・小塚村こつかむら佐喜ニ・髙瀬村たかせむら徳蔵(明寛行者めいかんぎょうじゃ)・髙原村たかはらむら喜代ニ(開道行者かいどうぎょうじゃ)」の四人に各神々かくかみがみ降臨こうりんまします

明寛行者めいかんぎょうじゃには国常立尊くにのとこたちのみこと
開道行者かいどうぎょうじゃには白川権現しらかわごんげん 現来ありていわ

西國開基さいごくかいき西開行者さいかいぎょうじゃ西覚行者さいかくぎょうじゃこうにより八合目金剛童子こんごうどうじ阿波國行者あわこくぎょうじゃめに渡すぞ」
勅命ちょくめい降りて

右の次第しだい御山おやま管理者神主かんぬし武居若狭たけいわかさ移牒いちょうせしに
神勅しんちょく何とてそむたてまつるべき早速さっそく奉勅ほうちょくとも奉行ぶぎょう
⬜︎来阿波行者あわぎょうじゃ健碑けんひの地となれり

れよりこの地を一般に阿波あわたけと⬜︎するにいたれり 

阿波あわ太祖たいそ福寿ふくじゅ教会きょうかい建立こんりゅう

この石板せきばんは昭和46年8月に、阿波の【太祖福寿協会たいそふくじゅきょうかい】(太祖福寿講たいそふくじゅこう)が建立したと彫られていました。

明寛行者は2人いた?

さて、この石板せきばんに書かれている文久元年(1861年)の出来事ですが、西覚行者さいかくぎょうじゃは御座儀式において前座まえざを務めたと思われます。

そして、中座なかざを務めたのが明寛行者めいかんぎょうじゃ開道行者かいどうぎょうじゃをふくめた4人とされています。明寛行者めいかんぎょうじゃには国常立尊くにのとこたちのみことが、開道行者かいどうぎょうじゃには白川権現しらかわごんげんが現れた、と書いてありました。

以前にも書きましたが、前座まえざとは、神さまを下ろす役割で、中座なかざとは、神さまの依代よりしろとなる役割がそれぞれあります。御座(おざ)拝見の感想は!?強力取材⭐︎番外編

前座まえざ】ー 実行役(神さまを下ろす)
中座なかざ】ー アバター(神さまが憑依する)

この中座なかざを務めた明寛行者めいかんぎょうじゃですが、心願講の講祖を務めた明寛行者めいかんぎょうじゃ(1823-1880)と同じ名前です。心願講の明寛行者めいかんぎょうじゃは、四国から登拝してきた西覚行者さいかくぎょうじゃの中座を務めたのでしょうか?年代的には可能です。

心願講にも明寛という行者がいる

しかし、心願講の明寛行者めいかんぎょうじゃ(1823-1880)は、名古屋生まれで本名は丹羽にわ宇兵衛うへえと言います。一方の石板せきばんの方はに書かれている明寛行者めいかんぎょうじゃは、「髙瀬村たかせむら徳蔵(明寛行者めいかんぎょうじゃ)」です。髙瀬村たかせむらは実際に徳島県に存在していたので、同一名の別人と考えた方がよさそうです。行者の名前はみな、師匠などから一文字取ることが多いため似通っていますし、被ることもあったでしょう。

太祖福寿協会建立

四国で発展した御嶽講のすごさ!

太祖福寿講たいそふくじゅこうは著しい発展をとげ、四国という遠方にいながらも、毎年海を渡って御嶽山への登拝を続けました。のちに【太祖神敬講たいそしんけいこう】という講社も海信行者によって設立され、今でも複数の御嶽講が四国に存在します。

とてつもない困難な状況の中で、今日こんにちまで御嶽山の信仰を継続していることが、信仰心の深さを物語っていると思います。受け継いできた先達や行者方の強い信念があったからこそでしょう。

今年の8月に、強力ごうりき倉本豊くらもとゆたかさんの紹介で、【太祖神敬講たいそしんけいこう】の御嶽山登拝に随行ずいこうさせてもらえる機会をいただきました。倉本さんと、許可くださった【太祖神敬講たいそしんけいこう】の主管しゅかんである川添海道かわぞえかいどう氏に感謝申し上げます。

随行記録は次の投稿で紹介します!お楽しみに!

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