山丸三の元ネタ?! 三峰山、普寛行者の誕生。

御嶽講と行者たち

いきなりですが、山丸三やままるさんについて紹介したのを覚えているでしょうか?

普寛行者ふかんぎょうじゃ】が御嶽山へ伝えた【山丸三やままるさん】の紋様もんようは絶大な影響力で、今や木曽の至るところで見ることができます。【山丸三やままるさん】は、【普寛行者ふかんぎょうじゃ】【普寛講紋ふかんこうもん】だけに留まらず、もはや【御嶽山】を表すロゴマークであるといっても過言ではないでしょう。

そして今回【三峰山みつみねさん】(三峰神社みつみねじんじゃ)において、山丸三やままるさん】の原型(元ネタ)とも言える紋様もんよう(ロゴマーク)を見つけましたのでご紹介します。【三峰山みつみねさん】(三峰神社みつみねじんじゃ)は秩父市に所在し、かつて普寛行者ふかんぎょうじゃ】が修行したと伝えられている場所です。

山丸三の原型?!

ではまずはその紋様もんよう(ロゴマーク)を見ていただきましょう。

表参道〜清浄の滝

それがこちらです。祠に注目です!「まるさん」が刻まれています。

この祠は、【三峰山みつみねさん】の表参道の中腹に祀られています。「清浄の滝」という場所です。

鳥居にも刻まれていました。え!これって【山丸三やままるさん】と関係あるんじゃない?

興雲閣

本殿横の建物『興雲閣』(元宿坊?)にも同じ『丸三まるさん』マークが刻まれていました。

百草パッケージ

三峰山みつみねさん】(三峰神社みつみねじんじゃ)では『百草ひゃくそう』という胃腸薬を販売していますが、そのパッケージにも『丸三まるさん』マークが使用されています。

提供写真

丸三まるさん』マークの背景にはしっかり山まで描かれています。

この『丸三まるさん』マークって、【山丸三やままるさん】の元ネタなんじゃない??

提供写真

この疑問については、最後に解説したいと思います。
(また、百草/百草丸については別の記事で取り上げる予定です)

三峰神社とは?

では次に、【三峰山みつみねさん】(三峰神社みつみねじんじゃ)について紹介します。

前回は秩父市大滝の、秩父御嶽山ちちぶおんたけさんを紹介しましたが、大滝のすぐ南側の峰に、【三峰山みつみねさん】(三峰神社みつみねじんじゃ)があります。

https://maps.app.goo.gl/WX9qoPe1VoCHWRZHA

三峰神社みつみねじんじゃは関東では有名なパワースポットとされており、大変人気のある神社です。

ヤマトタケルと狼

三峰神社みつみねじんじゃの由緒は、【日本武尊ヤマトタケルノミコト】が東国平定の際にこの地に立ち寄り、【伊弉諾尊いざなぎのみこと】【伊弉冊尊いざなみのみこと】を祀ったのが始まりとされています。ヤマトタケル伝説は各地にありますが、およそ西暦350年ごろのお話しです。

狼が道案内したとも伝わっているため、秩父の地では狛犬のかわりに狼が祀られているのを目にすることができます。

天台修験の関東総本山

その後も【三峰山みつみねさん】は、【役行者えんのぎょうじゃ】や【弘法大師こうぼうだいし】(空海くうかい)との関わりが残されています。以降、修験道や仏教の地として盛衰せいすいを経て、天文2年(1533)頃には、天台修験の関東総本山となり「観音院高雲寺」という名前になりました。
明治以降は、「三峰神社みつみねじんじゃ」と改められています。

「三峰(三峯)」とは、雲取山、白岩山、妙法ヶ岳みょうほうがたけの3つの峰を指しているそうです。妙法ヶ岳みょうほうがたけは現在の三峰神社みつみねじんじゃの奥宮にあたります。

秩父 三峯神社

普寛行者の生い立ちと三峰山の関係

つづいて【三峰山みつみねさん】と【普寛行者ふかんぎょうじゃ】の生い立ちについて簡単に紹介します。

普寛行者は享保十六年に武州秩父郡大滝村の落合というところで、木村信次郎の子として生まれた。幼名を好八といい、幼にして浅見家の養子となり、長じて左近と称した。
(中略)
少年の時代より剣法を好み、その業は相当進んでいたようである。後江戸に出て八丁堀はっちょうぼり法性院ほうしょういんを頼って剣道、漢学に励んだと言われている。
(中略)
明和元年八月致仕して郷里に帰り三峯山に登り観音院の日照の門に入り剃髪ていはつして普寛ふかんと改め修験の道に励むこととなった。師のもとにあること三年その間台密たいみつ二教にきょうの奥義を究め、明和三年八月権大僧都ごんだいそうずに昇格し、本明院ほんみょういんと称し、再び江戸に入り、先師法性院ほうしょういんの法統を継いだ。(中略)天明二年十月伝燈阿闍梨でんとうあじゃりに進んだ。

「御嶽の歴史」(生駒勘七)P194

少年時代は(中略)三峰山の学問所で漢学を学んだ。
(中略)
二十五人扶持ふちの武士1となり、剣術の道場を開いて五〇人の弟子を持つ。

  1. 二十五人扶持ふちの武士とは、「25人分の給料をもらっていた武士」ということ。(後述↩︎
「木曽御嶽信仰」(菅原壽清)P164

以下は簡単な年表です。

  1. 大滝村落合に生まれた
  2. 少年時代は三峰山の学問所で学んだ
  3. 剣術に秀でていて、成人後は武士として生活していた(後述)
  4. 30歳を過ぎてから修験の道へ入った
  5. 三峰山で出家し、「普寛ふかん」と改名
  6. 三峰山で3年間修行し「本明院普寛ほんみょういんふかんとなった

まとめ:【山丸三】の元ネタなのか?!

普寛行者ふかんぎょうじゃ】の生い立ちと【三峰山みつみねさん】の関係が伝わりましたでしょうか?

『普寛』の誕生

つまり【三峰山みつみねさん】は【普寛行者ふかんぎょうじゃ】が誕生した場所なんです。

剣術に優れたひとりの武士が生き方を思い直し、意を決して扉を叩いた場所が【三峰山みつみねさん
彼はその【三峰山みつみねさん】で修行し、のちに御嶽山を開闢かいびゃくした【普寛行者ふかんぎょうじゃ】となるわけです!

三峰神社の回答

では最初の疑問に戻りますが、
三峰山みつみねさん】で使用されている『丸三まるさん』のマークは【山丸三やままるさん】の元ネタなのか?!

実際に【三峰山みつみねさん】(三峰神社みつみねじんじゃ)へ問い合わせをしたところ、

三峰山みつみねさんと『丸三まるさん』と普寛行者の関係については確かなことは分かりません。
しかし、おっしゃる通りこの三峰山みつみねさんで普寛行者は修行していました。その頃から『丸三まるさん』の紋様は存在し、普寛行者も目にしているはずですから、影響を受けたかもしれません。
丸三まるさん』の三本線についての由来は伝わっていませんが、三峰山みつみねさん(雲取山、白岩山、妙法ヶ岳)を表していると考えています。」

との回答でした!

仮説と見解

以下は私の仮説と見解です。

普寛行者ふかんぎょうじゃ】が3年間の修行の中で見た『丸三まるさん』の紋様は、きっと普寛行者に影響を与えたに違いないと見ています。

普寛行者ふかんぎょうじゃ】は1792年に王滝村を訪ね、御嶽山の開闢かいびゃくや御嶽講の普及を行いました。
それはある種の営業(プレゼン)でもありました。

営業(プレゼン)にはロゴマークがあった方が印象に残りやすいですよね。
山丸三やままるさん】は現代でいうロゴマークです。
普寛行者ふかんぎょうじゃ】は【山丸三やままるさん】をロゴマークとして使用していたと考えられます。

仮説
 【普寛行者ふかんぎょうじゃ】は、【三峰山みつみねさん】で見た『丸三まるさん』からヒントを得て、
 新たに【山丸三やままるさん】という紋様もんよう(ロゴマーク)を作り、御嶽山へ広めた!

おまけ:二十五人扶持の武士とは

普寛行者ふかんぎょうじゃ】は「二十五人扶持ふちの武士」だったとの記述が残っていますが、簡単に説明すると、
「25人分の給料をもらっていた武士」ということです。

現代に換算すると、
最低賃金が時給1000円としたら、普寛さんは時給2万5千円!
最低初任給が22万円だとしたら、普寛さんは月550万円稼いでいたことになります!
かなりの高収入です!!

普寛さん、やはりすごかった!
強くて賢くて、地位も高い!

普寛行者はそれだけ剣術が優れていたにも関わらず、武士の地位を捨てて、三峰山へ弟子入りしたということになります。

普寛行者の熱意と覚悟が伺えます。
普寛さんは多くの人に慕われ、人海戦術にも長け、組織的でいつも周りに人がいた、そんな人な気がします。

写真提供:御嶽行者 山本円郁えんゆう

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