御嶽山(長野県側)は、主に二つの登山道があります。
- 【覚明行者】が開いた黒沢口
- 【普寛行者】が開いた王滝口
ずっと取り上げたかった、黒沢口の武居家と王滝口の滝家のシリーズを始めます。
二大名家は軋轢(あつれき)?
今回は、①武居家と滝家について簡単に紹介します。
似ていてややこしい?
- 「武居」と「滝」
- 「たけい」と「たき」
- 「武居家」と「滝家」
- 「たけいけ」と「たきけ」
なんか名前が似てると思いませんか?(噛みそう)
その理由は、この先を読めば分かります!
すべて二つずつ!
黒沢口の武居家と王滝口の滝家は、御嶽山の二本柱と言える二大名家です。
2つの登山道それぞれに【御嶽神社】の里宮(里社)と奥宮(奥社)があります。
| 王滝口 | 黒沢口 | |
| 開山者 | 普寛行者 | 覚明行者 |
| 登山口 | 田の原 | 中の湯、ロープウェイ |
| 10合目 | 王滝頂上2936m | 剣ヶ峰3067m |
| 里社名 | 御嶽神社里宮 | 黒沢本社、若宮 |
| 奥社名 | 王滝頂上本社 | 剣ヶ峰頂上奥社 |
| 宮司 | 滝家 | 武居家 |
以上のように、本当に真っ二つに分かれています。
軋轢(あつれき)とは?
しばしば黒沢の武居家と王滝の滝家関係について「軋轢」と表現されます。
「軋轢」は「あつれき」と読みます。意味は「不和」「関係が悪い」ですが、そういう単純なお話しでもありません。
むしろ現代では「確執」といった方が伝わるかと思いました。(根が深そう)
武居家と滝家の由緒とは?
いつからと知れず、黒沢村と王滝村にはそれぞれ神社がありました。
(黒沢も昔は「村」だったのでここからは「黒沢村」と表記します。)
黒沢村の宮司を武居家、王滝村の宮司を滝家が代々務めていますが、これは鎌倉時代からと記録があります。
名前の由来
武居・滝の姓はともに嶽(タケ)によって生じたものであって、御嶽開山にあたった修験者達の先達としてその指導的立場のあったのが嶽家(タケイエ)であり、御嶽から修験道が退潮して後も、山麓の黒沢・王滝に座王権現を保持して定着し、村の神官として道者達の指導にあたり、御嶽登拝の前導や道者達の育成などを行うようになったものではなかろうか。(中略)
「御嶽の歴史」(生駒勘七)p37
それぞれの神官として代々世襲し今日に至っているもので、正に御嶽開山より千年余にわたって連綿として続いた名家であるとうべきである。
「武居(たけい)」と「滝(たき)」なんて、初めて聞いた時はややこしいと思ったわけですがそれもそのはず。
似てるわけです!
さらに余談ですが、「王滝(おうたき)」も「御嶽(おんたけ)」が語源です。昔は「滝」も「嶽」も同じ意味合いでした。これについては、まだ別の機会に触れたいと思います。
百日潔斎を取り仕切っていた!
修験道が盛んになり室町時代中期(1400年前後)に入るころには、黒沢村の武居家と、王滝村の滝家でそれぞれ百日潔斎を取り仕切るようになりました。登山にあたっては神主の先達で登っていました。江戸時代!百日潔斎で御嶽へ登る方法とは?!
覚明行者が御嶽山を開山し(1785年)、軽精進の登山が認められるようになる(1792年)までの実に300年以上もの間、御嶽山は百日潔斎しないと登れませんでした。黒沢村の武居家と、王滝村の滝家は、御嶽山の登拝になくてはならない存在でした。
黒沢の起源と優遇
それでは、黒沢村の武居家から簡単に解説します。
伝承レベル
創祀、つまりいつから黒沢村に御嶽神社はあったのか?が分かる術はありません。記述を辿っても、それが伝承に基づくものであったり、伝承を写されたもののため、史実としては断定できません。
ですので、曖昧なレベルの言い方ですが、
最も古い記述は、大宝2年(702年)の奥社創建とされています。
その後は、
宝亀5年(774年)の『西筑摩郡誌』に、祭神として【大己貴命】【少彦名命】が祀られたとあります。これも伝承に基づく記録なので史実ではないようですが、現在の黒沢の里社ではこの宝亀5年(774年)が始まりと書かれています。

もう一つ、御嶽神社の創祀説として有力なのが、
延長年間創祀説(923年〜)であり、それが以前紹介した『御嶽山座王権現縁起』(阿古多丸の伝説)になります。(「御嶽山の歴史」P8」)
武居家は特別扱い!
徳治2年(1307年)に、諏訪から神主として武居家は派遣されました。
黒沢村の武居家は以下のように、山村代官から優遇されていました。
- 黒沢祢宜は「除地」である(享保9年(1724)の尾張藩の検地による)
- 奥社の祭司権は武居家にある(「黒沢村 御嶽蔵王権現 山祠有」)
- 黒沢はを木曽総社格である
結構なVIP待遇と言えます!では王滝ではどうだったんでしょう?
- 年貢を払わなくてよい(免除)
- 山頂の奥社の権利をもらえた
- 正当な木曽の神社としてとして特別扱い
王滝の不遇と受難
続いて、王滝村の滝家について解説します。
王滝の御嶽神社の創祀や、滝家に関しても起源がはっきりとわかっていません。

現在の王滝の御嶽神社に書かれている内容は、黒沢の伝承と同じでした。
- 大宝2年(702年)の奥社創建
- 宝亀5年(774年)
- 延長年間創祀説(923年〜)
その他、
文明16年(1484)に王滝村を開拓した三浦家が岩戸権現を創祀したことや
文明6年(1474)に再興の記録(木曽のおんたけさんP82)
永正4年(1507)の古祭文には王滝の『岩戸権現』についての記述が残されているようです。
不遇な扱い?
しかし王滝村の滝家は、黒沢と比べて不遇な扱いだったように感じます。
- 王滝祢宜は「年貢地」(享保9年(1724)の尾張藩の検地による)
- 祭司権がなく、御寄進もなかった
- 「御嶽」の文字を使えなかった
これはびっくり!黒沢村の武居家との、扱いが違いすぎて驚きです!
まず「除地」として認められていません。
黒沢村では免除されていた年貢が、王滝村では納めなければなりませんでした。そして奥社が黒沢村の支配下に入り、山村代官の御寄進もありませんでした。度重なる請願も虚しく却下されていたようです。(寄進とは、お布施やお供物を指します。当然、黒沢には寄進がありました。)
- 年貢を払わなくてはいけない(免除なし)
- 神社の権利がない
- 御寄進(寄付)もなし
『御嶽』の禁止?!
さらに驚愕ですが、王滝村は宝暦5年(1755年)以降、「御嶽」の二文字を使えなくなります。「御嶽岩戸権現」をただの「岩戸権現」と表記しないといけませんでした。
再び「御嶽」を社号に掲げられるるようになるのは慶応3年(1867年)です。
実に100年以上の間、
王滝村にとって屈辱と受難が続いたものと思われます。
王滝は、「御嶽を祀る場所」として認めてもらえず、
「御嶽」と名乗ることができなかった!
まとめ
以上が、武居家と滝家の紹介でした。ここまでが、御嶽山の開山前(〜1785年)に起こっていた出来事です。
これだけでも、黒沢村と王滝村がなんとなく関係が悪くなるのが分かりますよね・・・・・?
次回は覚明行者と普寛行者が、それぞれ御嶽山を開山した結果、両社(両者)に何が起こったのかを解説します。

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