普寛行者の弟子①圓城院泰賢

木曽の御嶽山の話

今回の主役は、八海山の回で紹介してきた圓城院泰賢えんじょういんたいけんです。これまでの記事で、代表的な普寛行者の弟子たちが出揃ってきましたので、個別に紹介&まとめをさせていただきます。
(普寛行者についてはこちら

「普寛堂宝物拝見記」より

圓城院泰賢えんじょういんたいけんについて分かっていることは、

  1. 普寛行者の御嶽山初登拝に同行している
  2. 普寛行者とともに八海山を開山している
  3. 普寛行者の亡き後、普寛堂の初代堂主となっている

以上について、紹介したいと思います。

八海山神主の分家生まれ!

圓城院泰賢えんじょういんたいけん(以下:泰賢たいけん行者)は、普寛行者の後継者的位置にいる行者です。

泰賢たいけん行者は明和4年(1767年)、越後の八海山神主である山田家の分家に生まれました。本名は山田源蔵といいます。母親が信州の諏訪出身らしく、泰賢たいけん行者自身も幼少期に諏訪で過ごしました。そんな諏訪を始め、上州松井田宿、信州奈良井宿などには泰賢たいけん講の痕跡があるようです。

泰賢たいけん行者の資料は少なく、普寛行者といつごろどのように出会い、弟子となったかは分かりませんが、普寛行者の立ち合いで得度(出家)したという記録があります。いつしか弟子となって、泰賢たいけん行者は優れた行者になりました。普寛行者とは36歳差ですが、親のように慕っていたのではと想像しています。

御嶽山の初登拝に同行!

泰賢たいけん行者は御嶽山の初登拝時に同行していることが、寛政9年(1797年)王滝村役人の口上書に残されています。

一、本明院弟子円城院と申山伏、六月五日、本明院同道ニ参り(中略)同七日登山仕候由。

寛政9年王滝村役人の口上書

「本明院弟子円城院」とは、本明院(普寛行者)の弟子の、円城院(圓城院泰賢えんじょういんたいけん)という意味と分かります。「申山伏」はおそらく明岳院広山みょうがくいんこうざんを指しているでしょう。

普寛行者の御嶽山初登拝は寛政4年(1792年)ですから、普寛行者は61歳、泰賢たいけん行者が25歳の時だと分かります。頼もしい若者だったんでしょうね。

普寛行者とともに八海山の開山

御嶽山の開山後は、寛政6年(1794年)八海山の開山にも同行したと、前回も紹介しました。

しかし、先ほど述べたように八海山は泰賢たいけん行者の出身地であるので、実際は泰賢たいけん行者が普寛行者を案内した?とも言えるようです。

その際、普寛行者は屛風道びょうぶどうを開きましたが、普寛行者亡き後は泰賢たいけん行者自身が、八海山大崎口登山道を開山しました。

大崎口にある八海山尊神社はっかいさんそんじんじゃの石碑には、「開祖泰賢たいけん行者」と彫られているのを確認しました。

普寛行者亡き後は?!

特に泰賢たいけん行者は中座なかざとして優れていたようで、普寛行者の葬儀中に、普寛行者の霊が憑依したといいます。

中座なかざとは、御座おざにおける神霊が憑依する役割を持つものを指します。ちなみに普寛行者や順明じゅんみょう行者は前座まえざ(神霊を呼ぶ役割)、泰賢たいけん行者や明岳院広山みょうがくいんこうざん中座なかざ、という位置付けになります。

御座についてはこちら御座(おざ)拝見の感想は!?強力取材⭐︎番外編をご覧ください。

享和元年(1801年)普寛行者亡き後、圓城院泰賢えんじょういんたいけんは普寛堂の堂主を勤めました。

しかし、わずか4年後の文化2年(1805年)、圓城院泰賢えんじょういんたいけんは38歳という若さで亡くなっています。病死と伝わっています。

埼玉県本庄市にある普寛霊場には、圓城院泰賢えんじょういんたいけんのお墓があります。普寛行者と順明行者の墓と並んでいます。

「普寛堂宝物拝見記」より

また普寛霊場には圓城院泰賢えんじょういんたいけんの版木も残されているようです。

木食普寛法弟
圓城院泰賢行者
武蔵國本庄駅開闢堂

と描かれています。38歳という若さを表した、精悍せいかんな顔つきです。

まとめと次回

普寛行者と泰賢たいけん行者の簡単な年表です。

西暦年号普寛行者泰賢たいけん行者
1731享保16年生まれる
1767明和4年36歳生まれる
立ち合い得度(出家)
1792寛政4年御嶽山開山
(61歳)
同行
(25歳)
1794寛政6年八海山開山
〔屏風道〕
同行
(案内?)
1801享和元年享年70歳34歳
1803享和3年八海山開山
〔大崎口〕
1805文化2年享年38歳

以上、泰賢たいけん行者について

  1. 普寛行者の御嶽山初登拝に同行している
  2. 普寛行者とともに八海山を開山している
  3. 普寛行者の亡き後、普寛堂の初代管長堂主となっている

という内容が伝わったでしょうか?

普寛行者には、優れた弟子たちがたくさんいました。以降も紹介していきます。普寛行者の弟子と題してますが、正確には普寛系列の行者たち、という括りになります。

  1. 圓城院泰賢えんじょういんたいけん 
  2. 金剛院順明こんごういんじゅんみょう
  3. 明岳院広山みょうがくいんこうざん和田孫八わだまごはち
  4. 一心行者いっしんぎょうじゃ
  5. 盛心行者(柴崎しばざき仙左衛門せんざえもん
  6. 一山行者いっさんぎょうじゃ
  7. 儀覚ぎかく行者ぎょうじゃ

の順に進んでいく予定です。

参考文献:
「御嶽の歴史」(生駒勘七)
「木曽御嶽信仰」(菅原壽清)
「木曽のおんたけさん」(執筆編集代表 菅原壽清すがわらとしきよ
「普寛堂宝物拝見記」(御嶽山開闢普寛堂 御嶽教滋賀大教会)

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