前回継母岳と継子岳の入れ変わり説とは!の続きです。
今私たちが認識している【継母岳】と【継子岳】は明治時代以前はそれぞれ逆の位置でした!
明治16年版地図と大正7年版地図を境に、二つの山はなぜか入れ変わってしまったんです。
これは単なる誤記載かもしれませんが、
それなら明治16年版と大正7年版と、どっちが誤記載なの?と思いますよね。それを今回調べてみました。
引き続き【継母岳】を「西御嶽」、【継子岳】を「北御嶽」と呼ぶことにします。
北御嶽 | 西御嶽 | |
明治16年以前 | 継母岳 | 継子岳 |
大正7年以降 | 継子岳 | 継母岳 |
北御嶽の名前の経過
まずは、北御嶽の謎を解きます。
ヒントになったのは、御嶽山三十八史跡巡りの朱印帳でした。「黒沢口第十九番 高天ヶ原」の後半部分にご注目です。
御嶽山の北端の継子岳は御嶽山縁起の阿古多丸伝説に因んで命名されたといわれる。
継子岳には阿留摩耶天を祀っている。
まずこの部分に関しては以前も取り上げていましたので、気になる方はこちらも読んでみてください。
継母岳と継子岳の由来〜阿古多丸伝説〜
アルマヤ天狗はどこにいる?!
問題はこの続きです。
黒沢口開山堂の伝承によると御嶽山に登拝する人々をあらゆる悪魔から守護するために覚明行者覚が悪魔を封じ込め、山嶺に大六天を勧請した山を魔が廃岳と呼んでいたのが継母岳になったという。(中略)
「朱印帳 御嶽山三十八史跡巡り」(木曽御嶽神社)
この伝承の山は現在の継子岳のことである。
情報が多すぎるかつ、書き方がまとまってなくて読み解きにくかったですが、
要約すると下記のようになります。
- 覚明行者が悪魔を封じ込めた山を、【魔が廃岳】と呼んでいた
- 【魔が廃岳】には大六天が祀られていた
- 【魔が廃岳】が【継母岳】という名前に変化した
- 【魔が廃岳】は現在の【継子岳】のことである
「まがはいだけ」という言葉と、【御嶽縁起】に登場する“継母”が習合して→
「ままははだけ【継母岳】」へと変化したようです。
ちなみに私が所持している大正7年の地図には、【マヽ子岳】の位置に【大六天】と【アルマヤ天】が祀られていることが分かります。つまり朱印帳の記載内容と一致していて、
【継子岳】が元は【魔が廃岳】だった
と言うことになります。(【大六天】についてはまた別の機会に紹介します)
北御嶽 | |
伝承 | 魔が廃岳 |
明治16年以前 | 継母岳 |
大正7年以降 | 継子岳 |
西御嶽の名前の経過
では西御嶽は?と言いますと、これも御嶽山三十八史跡巡りの朱印帳がヒントになりました。まだ本ブログでも紹介していませんが、「王滝口第15番奥の院」のページに【継母岳】と【継子岳】について書かれていました。
黒沢口開山堂の伝承によると、剣ヶ峰の北西にある山は連なった山々の間の小岳なので間々小岳と呼ばれていたのが継子岳となったという。この山の開祖は一心行者で、ここから遥拝できる北陸の霊山の白山から伊弉諾尊、伊弉冊尊の二神を勧請し、奉斎した。この伝承による山は位置的に現在の継母岳のことである。
朱印帳に書いてある「剣ヶ峰の北西にある山」とは、ここでいう西御嶽を指しています。
こちらも要約すると、
- 西御嶽は【間々小岳】(ままこだけ)と呼ばれていた
- イザナギとイザナミが祀られている
- 【間々小岳】は【継子岳】へ変化した
- 【継子岳】は現在の【継母岳】のことである
「ままこだけ」という言葉と、【御嶽縁起】に登場する“継子”が習合して→
「ままこだけ【継子岳】」へと変化したようです。
同じく大正7年の地図に、【マヽ母岳】の位置にイザナギとイザナミが祀られています。
つまり【継母岳】は、元は【間々小岳】だった
と言うことになります。
西御嶽 | |
伝承 | 間々小岳 |
明治16年以前 | 継子岳 |
大正7年以降 | 継母岳 |
まとめ
まとめると
北御嶽 | 西御嶽 | |
伝承 | 魔が廃岳 | 間々小岳 |
読み | まがはいだけ | ままこだけ |
明治16年 | 継母岳 | 継子岳 |
現在 | 継子岳 | 継母岳 |
黒沢口開山堂の伝承による、魔が廃岳と間々小岳という発音が、
【御嶽縁起】に出てくる継母と、継子(阿古多丸)と習合して、
現在の【継母岳】と【継子岳】という書き方へ変化したようですね。
まあつまり、合体、合併したと思ってください。
明治16年版地図まではずっと、
「北御嶽」が【継母岳】
「西御嶽」が【継子岳】と描かれていたわけです。
謎は深まる、、、
現【継子岳】=元【継母岳】
現【継母岳】=元【継子岳】ということが分かりましたが、
残念ながら入れ変わった理由を知る手段はありませんでした。
そして、黒沢口開山堂の伝承も見つけられませんでした。
西御嶽を開山したのが一心行者というのも根拠が分かりません。
機会があれば、開山堂か神社に直接聞いてみます。
私が知る最も古い地図は嘉永元年(1848年)版ですが、その地図にははっきりと「マゝ子ヶ岳」「マゝ母ヶ岳」と言う文字が読み取れました。もちろん、今とは逆の位置で描かれていました。
分岐点は明治16年以降と仮定して、
推測①-間違って記載されて現代に至った
推測②-山の雰囲気に合わないため、あえて入れ変えた
ぐらいしか考えられませんでした。
前記事の冒頭に書いた通り、名前というものは意外と曖昧に伝わっています。昔は何でも口伝(くでん、くちづたえ)なので、仕方ありません。
それも含めて伝えていけたら面白いなと思います。
おまけ
余談ですが、【御嶽山】も元はただの【御嶽】(おんたけ)、
さらに昔は【王嶽】(おのたけ)でした。(〈問題〉御嶽山はいつから御嶽山でしょう??)
私個人的には【王嶽】に戻っても良いなと思っています。
かっこよくないですか?
“木曽の霊山「王嶽」”!!
「朱印帳 御嶽山三十八史跡巡り」(木曽御嶽神社)
「御嶽の歴史」(生駒勘七)
「御嶽の信仰と登山の歴史」(生駒勘七)
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