今月は黒沢と王滝の確執について語ってきましたが、今回はその軋轢が及ぼした、さまざまな影響についてお話しします。
黒沢と王滝の確執①武居家と滝家
黒沢と王滝の確執②武居家の厄介事とは?
黒沢と王滝の確執③王滝、屈辱の戦い?
黒沢と王滝の確執④軋轢の結末は?
覚明講vs普寛講
まず黒沢と王滝の軋轢は、御嶽講にも及んでいたようです。
このように御嶽講社が中部・関西を中心に覚明講、江戸を中心に普寛講と、大きく二派に分かれた形で発達をみたことから、登山口も黒沢口(覚明講)と王滝口(普寛講)と相反するに至り、その間ややもすれば円満を欠く好ましくない傾向を生ずるようになった。
「御嶽山の信仰と登山の歴史」p18、152
義具行者がんばる
以前覚明講はいつできた?❷-オリジナルと真打-でもとりあげた義具行者は、黒沢と王滝の不仲をなんとか取り持とうと奔走していました。
講社名を自由にしよう!
また講名を単に覚明講・普寛講と称することが両派の軋轢の原因になるとして「講名の自由」を唱え、講社の創立に際して、その講社名を先達名・先達の出生地名その他種々の名称を冠することを勧めた(後略)
「御嶽山の信仰と登山の歴史」p22、161

黒沢とか王滝とか、
覚明とか普寛とか、
そういう名前が付いてると対立しやすい!
もっと自由な名前を付けようじゃないか!
黒沢と王滝、ワンウェイ作戦!
義具行者は(中略)登山口黒沢・王滝両村の争いを和解し、登山者の両村通過を図るため、両村へ初めて御嶽護摩堂(黒沢口は護摩堂原、王滝口は一心堂の付近)を開設し、各行者の修行場となし、講社の拡張を図り、黒沢口より登山するものは王滝口へ下山し、王滝口から登山するものは黒沢口へ下山することを勧め、両村の円満を図り御嶽山の繁栄のために専念した。
「御嶽山の信仰と登山の歴史」p188-189

黒沢と王滝、両方通れば平等!
仲良く協力しようよ!
相互利用しよう!
復習になりますが、この黒沢口と王滝口を相互に利用するワンウェイ作戦は、武居家も順明行者らに対して使っていました。
文政元年八月普寛派の行者金剛院順明・明岳院広山はさきの寛政十一年の規定は王滝村に不利であるとして黒沢村武居家に抗議を申し込み、その結果として黒沢村は譲歩して次のごとく両行者が御嶽座王権現の称を用いることを認めることとなり、その代りとして王滝より登山の普寛派の行者達に黒沢へも立ち寄るように要請している。
「御嶽の歴史」p248

お主ら二名(順明、広山)のみ
『御嶽』使用を許可しよう。
そのかわり、登拝した際には
黒沢にも立ち寄るように!
また、黒沢村の役人が一心講(普寛講)を支援して、下山口として黒沢口を利用するように取り計らっていたことが分かります。
黒沢村の村役人層も、幕府の弾圧にめげずに御嶽信仰の普及を図っていた一心講の盛心行者を支援したことから、後に一心講は王滝口から登拝し、黒沢口に下山するようになりました。
「木曽のおんたけさん」P56
現代でも、黒沢口と王滝口をバスを使ってワンウェイで歩く登山者がいるけど、まさか江戸時代からそれが行われていたとは驚きです。
剣ヶ峰頂上vs王滝頂上
次に、御嶽山には十合目が二つあるというお話を以前しました。
(もうひとつの十合目?王滝頂上!!)
王滝にも頂上奥社を建てよう!?
なぜそうなったかですが、剣ヶ峰の頂上奥社の支配権が黒沢村へ委ねられてしまったからです。
そのため、王滝村は対抗して新たに王滝頂上を作って奥社を建ててしまったというわけです!
結果、御嶽山には頂上(十合目)が二つできました。(もうひとつの十合目?王滝頂上!!)
天保三年(1832)11月6日に黒沢口との軋轢に因るという理由のもと、現在の王滝頂上に奥宮を創建しているが、その祭神は、国常立尊と少彦名命である。
「御嶽山王滝口 信仰資料拝見記」王滝口 御嶽神社/御嶽教滋賀大教会より
奥の院まで建てた!?
さらに、王滝頂上の奥宮について、以下のように書かれています。
奥の院は頂上王権現が黒沢村の支配に属してしまったのに対抗して、王滝側によって王滝口に頂上の奥の院として奉祀されるに至ったものである。奥の院については『木曽巡行記』、『木曽名跡私志』の記事等に見られるのが初めてであるから、大体天保・弘化ころになって奉祀されたものと思われる。
「御嶽山の信仰と登山の歴史」p58
王滝頂上の本社や奥之院は、黒沢の支配下にあった剣ヶ峰頂上奥社に対抗して建てられたといっても過言ではありません。
こうして黒沢と王滝、それぞれの里社と奥社ができたというわけです。
| 名称 | 王滝口 | 黒沢口 |
|---|---|---|
| 開山者 | 普寛行者 | 覚明行者 |
| 登山口 | 田の原 | 中の湯(6合目) ロープウェイ(7合目) |
| 10合目 | 王滝頂上(2936m) | 剣ヶ峰(3067m) |
| 里社名 | 御嶽神社里宮 | 黒沢本社、若宮 |
| 奥社名 | 王滝頂上本社 奥之院 | 剣ヶ峰頂上奥社 |
| 宮司 | 滝家 | 武居家 |
牛王宝印から分かる痕跡
以前、御嶽山に伝わってきた護符の牛王宝印について解説しました。
牛王宝印とは何ぞや??

上の画像は、埼玉県の普寛堂に伝え残された牛王宝印で『御嶽山牛王宝印』と書かれています。

そして、こちらの画像は王滝の御嶽神社が保有していた牛王宝印です。
『座王権現牛王宝印』と書かれており、『御嶽』の文字が使用されていません。
そして『牛王宝印』の字体は酷似していることから、元は同じものだったと伺えます。
王滝において『御嶽』の使用が禁止されていたことがよく分かりますね!
『御嶽と王滝』に拍手!
私はいつでもどこでも『御嶽』という文字を見ると心が躍ります。かっこいいし、好きだし、懐かしく感じるし、ありがたく感じています。
もし、その『御嶽』という字が使えない、使ってはいけない、消さなくてはいけないなんて事態になったらどうなるでしょう。とても想像できないです。
そんな事態を耐えてきた王滝村には、やはり感服しますし、『御嶽』に対する強い想い、信念を感じます。このブログを書きながら王滝村の歴史を辿ってきましたが、王滝村に『御嶽』が戻ってきたことが心から嬉しいです。『御嶽と王滝』に拍手です!
最初に、“武居”も“滝”も御嶽の「嶽(たけ)」から付けられた名前であると話しました。
実は何を隠そう“王滝”も語源は「御嶽(おんたけ)」なんです。
王滝(おうたき)=御嶽(おんたけ)
このこともあってか、私は王滝を訪ねるのがとても好きです。私には、霊的なものを感じる感覚はありませんが、あの地は霊験あらたかであると心から思います。
お山も、王滝も黒沢も、木曽もすべて御嶽の一部。大切に守っていきましょう!

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