前回まで、黒沢村目線の話と王滝村目線の話をそれぞれ取り上げてきました。
今回は引用多めで、実際にどのように記録されていたかをご紹介し、黒沢と王滝の確執ついてまとめに入ります。
分かりやすくするために表現をくずしていることをご了承ください。
御嶽山はどっちの物?
江戸時代半ばまでは、黒沢村の武居家と王滝村の滝家で共同で御嶽山を祀っていました。それがどうして「軋轢」と表現されるようになったんでしょう?
しばしば「軋轢」(不和、関係が悪い)と表現される黒沢と王滝ですが、
ものすごく簡単に話すと、
正当な立場にあった黒沢村の武居家が、王滝村を『御嶽』と認めなかったことに始まりました。
今まで漠然としていた御嶽山内の支配権が問題にされるようになり(中略)
「御嶽の歴史」p231
黒沢王滝両村間に紛争が生ずるようになり山内支配の中心となる山頂の奥宮の所属が問題の焦点となりそれぞれ奥宮・里宮の由緒を辿って両村の論争が繰り返されるに至った
(後略)
後世の江戸時代になって、黒沢村・王滝村の両村の間に御嶽の支配権を巡って対立をみるようになった。
「御嶽山の信仰と登山の歴史」p68
上記のように、
「御嶽山はどちらの物かどちらかはっきりさせよう」
という動きが出始めたことが、両村の軋轢の発端です。
王滝の事実上の敗北
決定的だった検地
それが享保9年(1724)の尾張藩の検地によって「正当は黒沢にあり」という内容の結果を言い渡されます。黒沢村は喝采、王滝村は落胆だったのではないでしょうか。
- 黒沢祢宜は「除地」である(享保9年の尾張藩の検地によって年貢免除が決定)
- 奥社の祭司権は武居家にある(「黒沢村 御嶽蔵王権現 山祠有」)
- 黒沢は木曽総社格である
- 王滝村は年貢を払わなくてはいけない(免除なし)
- 王滝村は神社の権利がない
- 王滝村には御寄進(寄付)なし
『御嶽』を取り除け?
さらに黒沢村は王滝村を追い込みます。
王滝・黒沢両村の間に紛争が生じたのは西筑摩郡誌に、
「御嶽の歴史」P231
「桃園天皇宝暦五年王滝村に於いて御嶽岩戸権現の称を用いたるより、黒沢村の故障あり山村家命じて御嶽の二字を除かしむ。」
とあるごとく宝暦五年が最初で里宮の称号にかかわるものである。
宝暦5年(1755)には『御嶽』という社号を禁止されてしまいます。王滝村にとって、屈辱で不名誉が続きました。

王滝村は『御嶽岩戸権現』と名乗っているが、
『御嶽』の文字は取り除くように!
宝暦5年(1755)以降、王滝は『御嶽』と名乗ることができなかった!
それぞれの状況と言い分
当時の黒沢村と王滝村、武居家と滝家、それぞれの感情はわかりません。しかし、状況を考えると、どちらかが悪いとかの話ではなくて、仕方なかった話だと言いました。
武居家の目線
黒沢村の武居家にとっては、『御嶽』を祀る正当な権利を使って正当な主張をしてきたんだと思います。
決め事を守らない行者(覚明行者、普寛行者および弟子)たちに頭を悩ませ、王滝村には公然と無視されたのでは、業を煮やすのも当然でしょう。
黒沢と王滝の確執②武居家の厄介事とは?
例.

黒沢は御嶽を祀る正当な場所だ。
そして御嶽山へ軽精進で登る許可が出ているのも黒沢だけだ。
決まりを守らない王滝が悪い。
滝家の目線
王滝村の滝家は、『御嶽』の称号と祀る権利を取り上げられ、悔しい思いをしてきました。何度願い出をしても却下されては、屈辱だったでしょうし、押し通したくなる気持ちもわかります。
黒沢と王滝の確執③王滝、屈辱の戦い?
両者は話し合いを重ね、王滝村は公認を得られたものの、
高額の入山料を黒沢口に納める決まりや、
王滝では「御嶽」を名乗ってはいけない、
王滝でお守りやお札を配ってはいけない、など王滝村にとっては納得できない内容でした。
例.

なぜ黒沢ばかり有利なんだ!
何度願い出ても却下ばかり!
王滝にはこんなに登拝者が訪ねてきているのに、
あれもダメこれもダメでうんざりだ。
軋轢の結末はいかに?
抗議と反発を繰り返すこと約150年!
御嶽山の名が全国的に広まることとなり、
慶応3年(1867年)ついに協定が改定されました。
明治直前の慶応3年(1867年)
かくして黒沢村も御嶽信仰普及についての王滝村の地位を改めて承認せざるを得なくなり、御嶽信仰の普及と木曽谷の経済的の発展という大乗的な見地から(中略)
「御嶽山の信仰と登山の歴史」p255
遂に慶応三年九月嘉永二年の契約を改め、新たに両村間に協定を結んで、王滝村より毎年金十両を黒沢村に納めることによって、御嶽岩戸権現の称号を是認することとなり、ここに王滝村多年の念願が達成せられるに至った。

王滝村に対し『御嶽岩戸権現』の社号を認める
毎年『金10両』を納めること。
王滝村が公式に『御嶽』として認められた時でした。

やっと『御嶽』が認められたぞ!
(金10両か……。)
およそ150年ぶりに王滝村は『御嶽岩戸権現』と正式にかかげるようになった。
時代は明治へ!
翌年1868年には明治維新となります。その後の両村の関係はどうだったのでしょうか?
かくて明治維新となり諸事一新され是迄の二村間の契約の履行も漸次行われなくなり、契約も自然消滅の形となったようである。
「御嶽山の信仰と登山の歴史」p257
明治となった両村間に紛争が二回起きている。一つは明治二年の岩郷村オエドの鳥居建設問題で、他の一つは明治八年の王滝口頂上御嶽神社破毀事件である。
と書かれていました。
協定は自然消滅とありますが、二つの紛争については気になるところですね。
ここでは簡単に紹介します。
オエド鳥居建設問題
明治2年(1869)に起こった鳥居建設問題ですが、小さな御影堂(オエド)が木曽福島にあります。順明行者が祀られています。歩いて御嶽山へ向かっていた頃は、この場所から、黒沢口と王滝口への道が分かれていました。

この御影堂(オエド)に両村がそれぞれ鳥居を建てて、自分たちの村へ登拝者を誘導しようとして起こった問題だそうです。
王滝口頂上御嶽神社破毀事件
明治8年(1875)の破毀事件とは物騒ですね。

王滝頂上は、御嶽山のもう一つの十合目であると以前紹介しました。
(もうひとつの十合目?王滝頂上!!)
じつは王滝村が黒沢村に対抗して作ったのが王滝頂上の奥社なんです。それを黒沢村の武居宮司が壊してしまったという事件だそうです。
この二つの紛争については、いずれ別の機会に取り上げます。
終止符
それぞれヒヤッとする内容ではありますが、大事にならないうちに和解、和談しているようです。
大体この二つの事件を最後として江戸時代を通じ二百年続けられてきた御嶽をめぐる両村間の係争問題も終止符をうつに至った。
「御嶽山の信仰と登山の歴史」p259
明治に入って神仏分離令や修験道廃止命令が政府から下り、それどころではなくなったというのも加味されます。
| 西暦 | 元号 | 武居家 |
| 1724年 | 享保9年 | 尾張藩の検地 |
| 1755年 | 宝暦5年 | 王滝に『御嶽』禁止 |
| 1785年 | 天明5年 | 覚明無断登拝(黒沢) |
| 1792年 | 寛政4年 | 軽精進許可(黒沢) 普寛無断登拝(王滝) |
| 1799年 | 寛政11年 | 王滝口の公認 (制約つき) |
| 1867年 | 慶応3年 | 王滝に『御嶽』の公認 |
| 1868 | 明治元年 | 明治維新 |
| 1869 | 明治2年 | オエド鳥居建設問題 |
| 1875 | 明治8年 | 王滝頂上破毀事件 |
とうに昔の話です!
これにて長きにわたる黒沢と王滝の確執、いざこざはおしまいです!
いかがだったでしょうか?
令和に入った今でも、黒沢口の御嶽神社は武居家、王滝村の御嶽神社は滝家が宮司を務めています。もちろんここでお話しした内容は、とうに昔の話だということをお忘れなく!
黒沢と王滝の両村、御嶽神社両社、武居家と滝家の両家ともに、現在は協力しあって御嶽山を守り、盛り立ててくださっています。
ずっと取り上げたかった黒沢と王滝について、やっと書くことができました!
ご感想やコメントを寄せていただけると嬉しいです!
じつはまだ番外編が続く予定ですが、ひとまずここまでありがとうございました。
分かりやすくするために表現をくずしていることをご了承ください。


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