黒沢口と王滝口の神主である武居家と滝家の紹介をしています。
前回は、覚明行者と普寛行者がそれぞれ御嶽山を開山した結果、何が起こったのかを武居家目線で解説しました。
今回は、「③王滝、屈辱の戦い?」です。前回の後半部分と内容は重複しますが、今度は王滝村(滝家)の目線でお話ししたいと思います。王滝側の動きは、「滝家が」というよりは村命に関わっていたので「王滝村全体の主観」でお話しします。
不遇な王滝?
ではまず、王滝村の宮司を務める滝家について復習です。
王滝は正当にあらず?
王滝村の滝家は、黒沢村と比べて不遇な扱いだったように感じます。
まず享保9年(1724)の尾張藩の検地では「除地」として認められず、、黒沢では免除されていた年貢が、王滝では納めなければなりませんでした。
そして奥社も黒沢の支配下に入り、山村代官の御寄進もありませんでした。
- 年貢を払わなくてはいけない(免除なし)
- 神社の権利がない
- 御寄進(寄付、お供え)もなし
王滝は御嶽にあらず?!
さらに驚愕ですが、「御嶽を祀る場所」として認めてもらえませんでした。
王滝・黒沢両村の間に紛争が生じたのは西筑摩郡誌に、
「御嶽の歴史」P231
「桃園天皇宝暦五年王滝村に於いて御嶽岩戸権現の称を用いたるより、黒沢村の故障あり山村家命じて御嶽の二字を除かしむ。」
とあるごとく宝暦五年が最初で里宮の称号にかかわるものである。
上記は宝暦5年(1755年)に、黒沢村が王滝村の『御嶽』の二文字を取り上げ、『御嶽』と名乗ることを禁止したことを表しています。
その後何度も王滝村は『御嶽』の返還を要求しましたが、虚しく却下されたようです。
再び『御嶽』を社号に掲げるようになるのは慶応3年(1867年)で、実に100年以上の間、王滝村にとっての屈辱が続いたものと思われます。
王滝は「御嶽」と名乗ることができなかった!
普寛行者、来たる。
本を読む印象では、黒沢の武居家や山村代官が強情な悪っぽいイメージで、王滝側はひたすら苦渋の飲むというか、不遇な立場で書かれています。
そんな不遇続きな王滝村へ、寛政4年(1792年)普寛行者がやってきました。
王滝村は、黒沢村への反発もあってか普寛行者に協力的だったようです。
普寛行者の絶大な影響力
普寛行者は、実に営業上手とも言えるはたらきかけをしました。

王滝口が開山し、御嶽講が集まれば、
村はとても繁盛して生活が豊かになると思う。
どうか協力してくれまいか?

うぬ、本当は協力してはいけないんだが、
一理ある。
普寛行者に警戒心を抱きつつも、実際に江戸からは毎年100名をこえる普寛講の信者が王滝村へ集まり、たくさんの奉納物を納めるようになった。
滝家や、王滝村の人々の内心は歓迎モードで、宿を提供したり、登山道整備に協力するようになった。
『御嶽』獲得運動開始!
その間たびたび黒沢村からの抗議が続き、王滝村の役人たちは困惑しました。しかし、普寛行者の言うとおり、王滝村への経済的効果は絶大でした。
寛政6年登拝禁止命令
そんな村の様子を見た役人たちも、しだいに王滝村の公認を求めるようになり、滝家は『御嶽』の社号を改めて獲得したいと考えました。

王滝村を御嶽山の登山口として認めてくれ!
しかし前回説明したように、
寛政6年(1794年)は、武居家から登拝禁止命令が下ります。

軽精進で登っていいのは、黒沢村だけ!
王滝村からは登拝禁止!
寛政7年『御嶽』依頼を却下
寛政7年(1795年)には『御嶽』社号公認の依頼するも、虚しく却下され、なかなか功を奏しません。

せめて『御嶽』の社号を返してほしい!

却下!御嶽神社はあくまで一座(一つ)!
それは黒沢(ウチ)のみ!
それでも、王滝村からの登拝者は増える一方でした。
寛政11年ついに公認?

「御嶽登山は木曽の富源なれば(仕方ない)」
かなりの制約つき⁈
寛政11年(1799年)両者は話し合いを重ね、ついに王滝口からの登拝が公認されました。
しかし、
- 徴収した入山料を黒沢口に納めること
- 『御嶽』を名乗らないこと
- 御守りや御札を配らないこと
など、かなりの制約がありました。
他にも「王滝村の登山道を整備してはいけない」「あくまで黒沢側に支配権がある」など定められました。

せっかく公認されたけど、
なんだか王滝村がすごく不利じゃないか
入山料は当初一人百文で、これは現代だと約3000円に相当します。
(のちに一人一人徴収するのが困難となり、年間支払いと変化します)
寛政11年(1799年)の制約内容は、王滝村に不利ではあったもの、御嶽山登山口としての公認の第一歩となった。
制約に反抗!
寛政11年(1799年)の制約とは裏腹に、
王滝村にはますます普寛講の信者たちが集まり、『御嶽』と書かれた奉納物が差し出され、その数は黒沢村を上回りました。

そもそもこの制約は不当だ!
(聞くものか!)

禁をやぶっているのは王滝じゃないか!
(許せん!)
文化元年に直談判!
抗議と反発(無視)が繰り返される中、
ついに現れるのが、【金剛院順明】と【明岳院広山】です。普寛行者の優秀な弟子であったこの二人は、武居家に対して直談判を行います。

寛政11年の制約は王滝側があまりに不利ではないか?
せめて『御嶽』と名乗らせてはもらえまいか?

うぬう….致し方無し。御山繁栄のためならば。
お主ら二名のみ許可しよう。
そのかわり、登拝した際には黒沢にも立ち寄るように!
文化元年(1818年)武居家は譲歩して、この二人だけには『御嶽』の社号を使用してよいと認められました。
順明さんと広山さんの直談判は、武居家にとってはかなりのプレッシャーだった。
王滝村の経済的効果を、黒沢村へも回してもらうことで譲歩したことが分かる。
無視と抗議、繰り返す
明岳院広山は、弘化2年(1845)に『御嶽座王権現』と彫られた石碑を建てました。王滝村に『御嶽』を堂々と掲げた瞬間だったと目に浮かびますが、さらに王滝村は、公然と『御嶽』の御札や金剛杖、山絵図、御影などを配るようになりました。
嘉永2年(1849年)
こうして無制限に『御嶽』を使用する王滝村に対して、武居家は抗議を繰り返しました。

順明と広山以外の『御嶽』使用は認めてないぞ!
社号は『座王権現』だ。
王滝は毎年『金3両』を黒沢へ納めること!
嘉永2年(1849年)のことです。40年近く経っても、未だ『御嶽』は禁止されていました。『金3両』とは、江戸後期だと約3万円という金額です。
慶応3年(1868年)ついに⁈
このころ御嶽山の名が全国的に広まり、ついに協定が改定されました。

王滝村に対し『御嶽岩戸権現』の社号を認める
毎年『金10両』を納めること。
慶応3年(1868年)王滝村が公式に『御嶽』として認められた時でした。

やっと『御嶽』が認められたぞ!
(値上げされたけど……。)
享保9年(1724)以来144年ぶりに『御嶽』の社号が認められて、王滝村は『御嶽岩戸権現』と正式にかかげるようになった。
まとめ
以下が、王滝村に起こった年表です。
| 西暦 | 元号 | 王滝村 |
| 1724年 | 享保9年 | 尾張藩の検地 |
| 1755年 | 宝暦5年 | 『御嶽』社号禁止 |
| 1792年 | 寛政4年 | 普寛登拝(王滝) |
| 1794年 | 寛政6年 | 王滝口の禁止命令 |
| 1795年 | 寛政7年 | 調停を却下される |
| 1799年 | 寛政11年 | 王滝口の公認 (制約つき) |
| 1818年 | 文化元年 | 順明、広山のみ 『御嶽』を許可 |
| 1849年 | 嘉永2年 | 武居家から抗議 |
| 1867年 | 慶応3年 | 『御嶽』社号公認 |
| 1868 | 明治元年 | 明治維新 |
王滝村にとって、『御嶽』という社号を禁止されていたことは、屈辱で不名誉なことだったんじゃないかと思います。それが1724年から1867年まで150年近く続いたわけですから、苦しい戦いだったでしょう。
普寛行者という大義名分を得て、王滝村は黒沢村へ反発するようになり、抗議を続けるようになったわけです。壮絶なイタチごっこのようにも思えました。
今では黒沢も王滝も正式な御嶽神社です。
普寛行者の絶大な影響力に感服です。先見の明に加えて、実行力、弟子たちの統率力すべてがすごい。
王滝村の、武居家や山村代官へ逆らったり無視するといった行動は、誉められる行為ではないかもしれませんが、それだけ普寛行者の影響や、普寛講の勢いが凄かったことを物語っています。

コメントあればお願いします 質問も受け付けます