前回、御嶽山開山前(〜1785年)に起こっていた武居家と滝家の紹介をしました。
王滝村は、黒沢村と比べてかなり不遇な扱いを受けていたので、なんとなく関係が悪い理由が分かったでしょうか?
今回は、覚明行者と普寛行者がそれぞれ御嶽山を開山した結果、何が起こったのかを武居家目線で解説します。
武居家の復習
復習ですが、徳治2年(1307年)、諏訪から神主として黒沢村に武居家が派遣されました。
以来、黒沢村の武居家は以下のように優遇されていました。
- 年貢を払わなくてよい(免除)
- 山頂の奥社の権利をもらえた
- 正当な木曽の神社としてとして特別扱い
さらに宝暦5年(1755年)以降は、
王滝村に対して『御嶽』と名乗ることを禁止していた!
覚明行者、来たる。
安政元年(1772年)覚明行者が尾張から木曽へやってきました。覚明行者は協力者探し、布教活動、知恵の伝授、開山準備などに奔走しました。
そして天明2年(1782年)覚明行者は、武居家へ軽精進登拝の許可申請をします。
が、あっさり却下されます。
覚明行者の開山って、何がすごいの?と合せて読んでいただけるとよいです。
武居家の言い分

御嶽山を誰でも登れるようにしたい!
百日間の精進潔斎は大変だから、
軽精進で登れるようにしてくほしい!

伝統的な登拝形式を破るなんて言語道断!
それに尾張藩によって留山(保護対象)に
なってるから絶対ダメ!

怪しい山坊主だ。300年以上続いてる伝統を変えられるわけない!
尾張藩に逆らうことになりかねない!
武居家からしたら、これは意地悪でもなんでもありません。いきなり現れた怪しい山坊主(覚明行者)の言うことなんか聞くわけありません。「そりゃ却下するでしょ」、という感じです。
まさかの無断登拝!
しかしその後、
天明5年(1785年)覚明行者は無許可登拝を強行します。
しかも一回だけじゃなく続けて3回も、です。

あの山坊主(覚明行者)とんでもないことをやらかしやがった!
当然のごとく武居家は怒って、山村代官へ報告し、覚明行者は21日間の投獄を受けました。
一緒に登拝した百名以上の信者や、宿の提供者も罰をうけました。
村民に根負け?
覚明行者が亡くなったあとも、村民や信者による無断登拝が続きました。武居家と彼らの関係は悪くなり、取り締まりも強化されました。
しかし、村民たちからの願い(署名運動のような活動)もあり、武居家と山村代官は寛政4年(1792年)軽精進での登拝を認めることとなりました。
(覚明行者の開山って、何がすごいの?)
(軽精進ってどれくらい軽くなった?)

差支えなし。(許可する)
言ってしまえば、「根負け」したわけですが、多くの信者が木曽(黒沢)へ訪れることにより村は潤ったわけです。村の繁栄のために、300年以上続いた伝統を改革してくれたことに感謝ですね。
普寛行者、来たる。
黒沢村からの軽精進登拝を認めた武居家。
が矢継ぎ早に、つぎは王滝村で無許可登拝が起こります。そう、普寛行者がやってきました。
普寛行者の絶大な影響力
なにせ、普寛行者です。超組織的で弟子もたくさん、営業も上手い、人身掌握すごい、商売上手ときました!(開闢(かいびゃく)とは?普寛行者の功績!)
結果、王滝村へはものすごい数の人が訪ねてくるようになり、ついに黒沢村を上回りました。武居家は焦ります。何がなんでも登山者を王滝村から取り戻したい一心だったんではないでしょうか?
寛政6年(1794年)話を聞いた武居家は、王滝村からの登拝をもちろん禁じました。

軽精進で登っていいのは、黒沢村だけ!
王滝村の反発
しかし元から冷遇を受けてきた王滝側の反発もあったせいか、ひたすら無視?!されてしまいます。
翌年の寛政7年(1795年)王滝村から調停がありますが、武居家は変わらず却下しました。そう簡単に認めるわけにはいかなかったようです。

『御嶽』の二文字(社号)を返してほしい!

御嶽神社はあくまで一座(一つ)!
それは黒沢(ウチ)!
寛政11年公認?
4年後の寛政11年(1799年)、
両者は話し合いを重ね、ついに武居家は王滝村を公認します。

「御嶽登山は木曽の富源なれば」
(仕方ない)
「御嶽登山は木曽の富源なれば」という名言のもと、福島村役人による素晴らしい収めどころでした!(「御嶽の歴史」P240)がしかし、
- 高額の入山料を黒沢口に納めること
- 『御嶽』を名乗らないこと
- 御守りや御札を配らないこと
など、かなりの制約を付けました。相変わらず王滝村の不遇は続きます。これは仲が悪くなる一途を辿っていますね。

なんだこの制約は!不当じゃないか!
(聞くものか!)

禁をやぶっているのはそっちじゃないか!
(許せん!)
- 王滝は、「不当である!」と反発し、禁を破る。
- 黒沢は、「禁を破っている!」とたびたび抗議する。
- これの繰り返しだった。
直談判されて?
そこで現れるのが、普寛行者の弟子であった【金剛院順明】と【明岳院広山】です。
文化元年(1818年)両者は、武居家に対して直談判を行いました。

せめて『御嶽』と名乗らせてはもらえまいか?

うぬう….致し方無し。
お主ら二名のみ許可しよう。
そのかわり、登拝した際には黒沢にも立ち寄るように!
結果、武居家は譲歩して、この二人だけには『御嶽』の称号を使用してよいと認めました。変わりに、普寛講が御嶽へ登拝した際は黒沢にも立ち寄るよう取り決めました。
順明と広山の影響力がすごかったことが分かる。
もはや武居家にとっては、普寛講のもたらす経済的恩恵を無視できずなかった。
『御嶽』はまだダメ!
しかしその後も、無制限に『御嶽』を使用して好き勝手する王滝に対して、武居家は抗議を繰り返しました。
嘉永2年(1849年)
結果、王滝は以下のように定められます。
・『座王権現』の社号にする
・毎年『金3両』を納める
- 半世紀以上経っても、未だ王滝村の『御嶽』は認めなかった
- 『金3両』とは、江戸後期だと約3万円
明治直前にしてようやく?!
そこからさらに20年後の慶応3年(1868年)、
契約更新でついに、

王滝村の『御嶽岩戸権現』の社号を認める。
ただし、毎年『金10両』を納めること。
王滝村に対して、ようやく公式に『御嶽』の称号を認めた!
しかしその代償なのか、『金10両』と値上げされています。やはり黒沢優位な姿勢は残っていたと言わざるを得ません。
まとめ
年表
以下、実に長いですが、武居家に起こった年表です。
| 西暦 | 元号 | 武居家 |
| 1307年 | 徳治2年 | 黒沢村へ派遣 |
| 1724年 | 享保9年 | 検地にて「除地」 |
| 1755年 | 宝暦5年 | 王滝に『御嶽』禁止 |
| 1782年 | 天明2年 | 覚明へ軽精進却下 |
| 1785年 | 天明5年 | 覚明無断登拝(黒沢) |
| 1792年 | 寛政4年 | 軽精進許可(黒沢) 普寛無断登拝(王滝) |
| 1794年 | 寛政6年 | 王滝口の禁止 |
| 1795年 | 寛政7年 | 調停を却下 |
| 1799年 | 寛政11年 | 王滝口の公認 (制約つき) |
| 1818年 | 文化元年 | 順明、広山から直訴 |
| 1849年 | 嘉永2年 | 無視する王滝へ抗議 |
| 1867年 | 慶応3年 | 王滝に『御嶽』の公認 |
| 1868 | 明治元年 | 明治維新 |
宝暦5年(1755年)以降、王滝村に対して『御嶽』を禁止してから慶応3年(1867年)の公認までの100年以上にわたる黒沢村と王滝村の冷戦と言えます。どちらかが悪いとかの話ではなくて、仕方なかったというか、十分に起こり得る話だと思いました。
武居家の目線でわかること
どうしても本を一読しただけでは、黒沢村の武居家や山村代官が強情な悪っぽい印象があります。実際私自身、王滝側を被害者だと一方的に思っていました。
しかし、覚明行者の軽精進運動や王滝村からの要請は、武居家にとってたびたび頭を悩ませる出来事だったに違いありません。こうして武居家の目線で考えてみると、押されて根負けしたり、無視されたり、あげく譲歩を迫られるというのは、武居家にとってはひどい厄介事だったんじゃないでしょうかと思い、気の毒にも思えます。
開山前から御嶽山の祭祀を担っており、正当な立場を与えられていた武居家からしてみれば、当然の行為だったでしょう。
それでも、最後には「御山の繁栄のために」と王滝を受け入れてくれたわけです。
こうして長きにわたって、御嶽を守り、管理してくださっている黒沢の武居家には、改めて感謝の気持ちを表わしたいです。

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