【覚明行者】【普寛行者】によってそれぞれ開山された【木曽の御嶽山】ですが、今回はその開山前のお話!
当時御嶽山へ登るには、
「75日間あるいは100日間の精進潔斎したものだけが登拝を許可された云々」
とそこそこ御嶽山に関わっている人ならば、見聞きしたことあると思います!
- それは聞いたことあるけど、精進潔斎っていったいどんな修行??
- 75日と100日は何で区別されてる?
- お金ってどれくらい必要?
という疑問を解消したいと思います!
御嶽山へ登る方法!
それでは、江戸時代の開山前に、御嶽山へ登る方法を調べてみましょう。詳しく記されている資料「御嶽登山儀式抄」から要点のみ起こしてみます。
(当時から黒沢側と王滝側でそれぞれ定められていたようですが、今の登山ルートとは全く違っていたようです。そちらはまた書けそうならトライしてみます。)
その様式は一定の儀礼にしたがって集団的に行われており、
時期
順序
方法
経路
供物
拝礼場所
拝礼回数
お捻り(金額や米の量)
服装
登拝用具
禁止事項
など大変細かく、そして厳しく定められていました。
また、女性の行者は「イタ」(井田、伊多)と呼ばれていました。東北に伝わる巫女「イタコ」が語源であると言われています。イタ行者は七十五日の精進潔斎を課されていました。女人結界の場所は今の女人堂ではなく、当時は今の六合目に位置する場所までしか登拝できなかったようです。
「御嶽登山儀式抄」より
まず時期ですが、
本精進は三月三日より開始して百日間
イタ道者は七十五日間
精進潔斎の内容は以下の通り
- 衣類は白衣
- 食事道具は新しいもの(毎回?)
- 家族別火(べっか、べつび、家族で食事の火を別で扱うこと)
- 同衾を禁ず(男女は寝所を別にする)
- 五辛(にら、ねぎ、にんにく、らっきょう、しょうが)の食用禁止
- 魚肉の食用禁止
- 水垢離
六月五日 準備をする
六月六日 岩戸(里宮)へ入り供物(米や酒)を捧げる
〜六月十三日 祭礼までの間、決められた時間と場所(山麓の三十八座を巡拝)で
計六七三度の礼拝を行う
六月十四日 早朝出発 坊(ミヨ)に宿泊(現在の6合目付近)
イタ道者はここまでで日帰りとする
六月十五日 夜中に出発、王滝頂上と剣ヶ峰を目指す
ここに定められている日付は旧暦のため、今でいう四月から七月にかけての時期だったということになります。
お金はどれくらいかかる?
次にお金です。
山における決められた登拝場所では
「〇〇では、⬜︎⬜︎を△△奉納せよ」つまり
「この場所では、米やお捻りを、これだけ捧げなさい」と
このように細かく決められていました。
そして精進潔斎の百日間に至っては、「その料 金三両二歩 百日の行用とす」という記述もありました。(『翁草』より)
「金三両二歩」とは「金三両半」、一両は現代でいうところ約13万円だそうなので、
約50万円は用意できていないと実行すらできなかったということです。相当に裕福でないと手が届かない金額ですね。
終わりに
このように日数的にも長く、厳しく、そして経済的にも裕福でないと実施できなかったと思われます。
しかも当時は登山路もあってないようなものでした。今の私たちが知るのとは、全く違う道を辿っていたことでしょう。
上記のような厳しい条件な上、年一度の機会しか与えられない登拝は容易ではなかったと記されていました。このような状況を見かねて、【覚明行者】は軽精進での一般開山を求めたんですね。
そりゃそうだ!と私も思います!
しかしながら、これだけの内容が細かく決まっていたとなると、簡単には容認されなかったというのも納得がいきます。
【覚明行者】の尽力あってこその開山!
偉大なり【覚明行者】!ありがとうございます!!
開山後の軽精進での登り方も、また改めて紹介したいと思います!
参考文献:
「御嶽の歴史」(生駒勘七)
「村誌 王滝」(王滝村)
コメントあればお願いします 質問も受け付けます