【覚明行者】が亡くなってから約50年後にできたと言われる【覚明講】について話しています。
①元祖
【覚明講】の元となった講社、またその系列の講社
②オリジナル
【覚明行者】にスポットを当てて立ち上がった講社
③真打
木曽で立ち上がった講社
【覚明講】と言われる講社は、以上の三つに分けることができます。
前回の続き②オリジナルと③真打を説明したいと思います。
オリジナル?
では②【覚明行者】にスポットを当てて立ち上がった講社を紹介します。
前回説明した儀覚行者の宮丸講とは別流で、はじめから【覚明行者】を意識して立ち上がった講社が、【誕生講】(元:牛山講)と【出生講】です。
この講社は、【覚明行者】の業績と遺徳を再認識して、覚明行者に崇敬の念を抱き、彼を師と仰ぐことを信念としています。「誕生」「出生」という講社名からも、【覚明行者】の地元に誇りを持っているのが分かりますね。
なのでここでは②オリジナルという言い方をしています。
誕生講(牛山講)
【誕生講】
講祖:覚扇行者(覚明行者の甥?)
場所:牛山町(春日井)
特徴:牛山講を前身とする
この【誕生講】を立ち上げた覚扇行者は【覚明行者】の親戚筋で、甥であると言われています。元は牛山講という名だったようですね。
【覚明行者】の甥というのは驚きですよね。まさに【覚明行者】を継承するにふさわしい、そして血筋という意味から「誕生」という名前にこだわりを感じます。
出生講


【出生講】
組織:清寛行者
講祖:理覚行者と覚司行者の二系統
場所:清洲町(理覚)と新川町(覚司)
特徴:新川町は覚明行者が幼少期過ごした町である
「出生」という名前は、やはり【覚明行者】が幼少期過ごした出身地という意味が大きいですね。現代でも有名人の地元は盛り上がる傾向があります。

私が昨年強力取材の折に同行させてもらって、御座を見学させてくださった講社でもあります。まだ現役で活動されてるのが心強いですね。くわしくはこちらをご覧ください。
真打!木曽の講社
最後に、③の木曽で立ち上がった講社を紹介します。
幕末から明治にかけて、御嶽山の麓である木曽で【覚明講】が立ち上がりました。それが義具行者による木曽の講社で、黒川覚明講とも言われています。時期的に1番最後に登場するのと、木曽という本場の地で再興されたことから③真打と呼んでみました。
義具行者
まずは義具行者、本名:児野嘉左衛門という重要人物を紹介します。
義具行者(1809-1886)は木曽で生まれ、御嶽山で「覚明講を開き広めよ」という神勅を受けたことにより、木曽の地で【覚明講】の再興運動をした人物です。
二つの問題
この時代、御嶽講は二つの問題に直面していました。
宗教弾圧
ひとつは、宗教弾圧です。幕府の宗教弾圧、圧迫、禁令処分を受け、一心行者への流刑(1820)や、不二講(富士講)などへの宗教弾圧(1795)が強い時代でした。
黒沢と王滝の不和
もうひとつは、【覚明講】と【普寛講】の不和です。二波に分かれて発達したために、黒沢口と王滝口は、円満を欠く関係であったといいます。
これらの問題に際して、義具行者は御嶽信仰の存続に強い危機感を抱いていました。
二つの対策
義具行者はこれらの問題に対して二つの対策を行いました。
護摩堂の建立
児野に護摩堂を建立し、尾張藩直轄の祈願所としました。この護摩堂は東叡山(東京上野寛永寺)のバックアップがついており、山村代官の保護も受けていました。
これにより【覚明講】と【普寛講】の妥協を図り、両派が一丸となるようにしました。


講名の自由化
次に「講名の自由」を唱えました。
講社の名前に、先達名や先達の出身地名を付けることを勧めました。「覚明講」や「普寛講」と名乗ることが、両派の軋轢の原因になっていると考えたのです。
この働きにより、各講社は、思い思いの自由な講社名を名乗るようになりました。親講から分派する講社も増え、幕末には大小500を超える【御嶽講社】が生まれました。
二人の協力者
この義具行者に協力したのが盛心行者と空明行者でした。
盛心行者
盛心行者(柴崎仙左衛門)は生涯かけて一心行者の名誉回復に努めた人物です。丸江元講(普寛講)の講祖でもあります。彼は義具行者に協力して、全国の御嶽講の結集をはたらきかけました。


空明行者
もうひとりの空明行者(1815-1897)も義具行者に協力して、御嶽講結集へ尽力しました。護摩堂の先達も勤め、明治以後は、御嶽講が所属していた神道教団顧問を歴任。生涯に渡り、御嶽信仰の維持普及に尽力したそうです。また長峯峠に遥拝所を建てたと言われています。
義具行者らの功績と受難
天保年間に、義具行者(児野嘉左衛門)が再興した黒川覚明講は、御嶽山の麓である木曽で興ったという点が重要です。以後、木曽に結成された講社は、そのほとんどが【覚明講】なんだそうです。
これは【覚明行者】が、御嶽解放運動の先駆者として、木曽住民の心に生き続けてきた証だと言われています。
義具行者と、協力者であった盛心行者と空明行者たちは、木曽の地で数々の功績を上げ、御嶽講のために奔走しました。しかしながら、後にやってくる明治元年の神仏分離令により、さらなる受難が彼らを待っていたのでした。
神仏分離令による御嶽教立教についてはまた今後お話しします。
義具行者は明治以後も、神道事務局より神道教導職試補や内務省より権訓導(神社の教員資格)を拝命するなど、御嶽信仰の維持に奔走したことが伝わっています。
まとめ
以上で【覚明講】の説明を終わりますが、いかがだったでしょうか?
①元祖
【覚明講】の元となった講社、またその系列の講社
例:儀覚行者の宮丸講
②オリジナル
【覚明行者】にスポットを当てて立ち上がった講社
例:誕生講、出生講
③真打
木曽で立ち上がった講社
例:義具行者の黒川覚明講
それぞれの特徴を理解いただけたなら嬉しいです。
普寛講は主に江戸で拡大したのに対し、【覚明講】は、木曽と尾張で発展し、西日本を中心に九州まで普及しました。
これら【御嶽講社】は、統一はされたものではなく、各講社が独自の信仰形態を持っていました。
機会があれば、また西日本の講社ついても取り上げたいと思います。
ありがとうございました。
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