御嶽山は噴火警戒レベルが1へ下がり、再び黒沢口登山道から登れるようになりました。
この黒沢口登山道は、尾張出身の【覚明行者】が開いた道です。そのため、登山道には【覚明行者】由来の場所が多く残されてあり、また【覚明講】に関する霊神碑が数多く建てられています。
前回、御嶽講って何?〇〇講の意味とは?で、御嶽講の意味や由来を話しましたが、今回は【覚明講】に関するお話です。
覚明講とは?
【覚明講】がいつのタイミングで設立されたのかというと、、、、
なんと【覚明行者】が死んで(入定して)から約50年も後の話なんだそうです。
年代 | 覚明行者 | 普寛行者 |
1785年 | 御嶽山登拝 | |
1786年 | 入定(死) | |
1792年 | 御嶽山登拝 | |
1797年 | 普寛講が創立 | |
1800年代 前半 | 【覚明講】創立? | 普寛講は発展中 |
「え?!そんな後なの?!」とびっくりですね。
ちなみに【覚明講】とは「覚明行者系列の御嶽講」と考えてください。(御嶽講については前回の記事をご覧ください)
【覚明行者】は御嶽山を開山した翌年(1786年)に亡くなっており、弟子もいませんでした。そもそも【覚明行者】の目的は一般市民の御嶽山開放だったので、講社を設立する構想はなかったと思われます。(仮に長生きしていたら、【覚明講】を立ち上げたかもしれませんね)
年代 | 覚明行者 | 普寛行者 |
1785年 | 御嶽山登拝 | |
1786年 | 入定(死) | |
1792年 | 御嶽山登拝 | |
1797年 | 【御嶽講】創立 |
いずれにせよ1786年には、御嶽講の存在がないというわけです。普寛行者が御嶽山を開いたのが(開闢)1792年、最初の御嶽講ができたのが1797年の頃と言われています。これは【覚明行者】の死後およそ10年先にあたります。
つまり普寛講が発展したのは(作った本人だから)当然といえますが、【覚明講】は発展のしようがありませんよね、、、?
いったいどのような経緯で【覚明講】は創立されたのでしょうか?
三つの源流?!
【覚明講】が立ち上がった時期についてですが、正確な年代は分かっていません。文化年間ー天保年間(1804-1843年の間)とされています。
文化元年 | 1804年 |
天保元年 | 1830年 |
天保14年 | 1843年 |
弘化元年 | 1844年 |
【覚明講】と言われる講社は、大きく三つに分けられるので、以下のように区分しました。
①元祖
【覚明講】の元となった講社、またその系列の講社
②オリジナル
【覚明行者】にスポットを当てて立ち上がった講社
③真打
木曽で立ち上がった講社
【覚明講】元祖?
今回は①元祖と言える【覚明講】の元となった講社、またその系列の講社を紹介します。
宮丸講とは?
【覚明講】の起源は儀覚行者が立ち上げた宮丸講だと言われています。
【宮丸講】
設立:文化8年(1811年)〜天保年間(-1843年)
講祖:儀覚行者
場所:尾張(熱田)




儀覚行者とは何者?
以前も紹介しましたが、普寛行者の弟子の一人に明岳院広山(以下:広山)という人物がいました。
その広山に弟子入りしたのが儀覚行者です。(明岳院広山についてはこちら)
言わば普寛行者の孫弟子と言えますし、儀覚行者にとって普寛行者は「師匠の師匠」「大先生!」という存在なわけです。
そんな儀覚行者が、尾張で宮丸講を立ち上げました。尾張とは【覚明行者】の故郷で、現在の愛知県西部を指します。宮丸講は東海地域で初めて組織された御嶽講にあたります。【覚明行者】の業績は有名だったでしょうから、地元の人々に深く浸透していったのだろうと思います。

儀覚行者は以前、黒沢口第二十一番 三十六童子でも取り上げています。
儀覚行者の弟子たち
その後も、儀覚行者の弟子たちによって数々の講社が組織されました。代表的な講社を紹介します。
【福寿講】
講祖:寿覚行者(儀覚の弟子)

【日出講】
講祖:覚成行者(儀覚または寿覚の弟子)
場所:美濃(岐阜)
特徴:木曽へ影響、義具行者や空明行者と交流(③本場)
【明栄講】
講祖:覚礼行者(覚成の弟子)

【心願講】
古伯行者
明寛行者1823-1880(儀覚の弟子)
明心行者1836-1911(古伯の実子)
日頃からお世話になっている高針心願講さんの系列ですね。


まとめ
明岳院広山と儀覚行者の二人が出会わなければ、【覚明講】は存在しなかったかもしれません!【普寛講】と【覚明講】を繋いだ儀覚行者に感謝ですね!
このように儀覚行者が創設した宮丸講を中心に、東海地域へ御嶽講が広がっていきました。
厳密にいうと、ここで紹介した講社は宮丸講始め、全て普寛講なんですが、宮丸講の影響を受けて【覚明講】が再興されたということが重要です。どちらの流れも汲んでいると考えた方が適切かもしれません。
改めて「儀覚」という名前からも、【覚明行者】の存在が伺えます。法名は師から一文字いただく場合が多いのですが、儀覚行者は広山からではなく【覚明行者】から一文字もらっていることが、非常に興味深いですよね。明らかに影響を受けていたと分かります。
よって【覚明講】の元となった宮丸講、またその系列の講社を①元祖と括りました。
(あくまで分かりやすく伝えるために選んだ言葉です。ご容赦ください。)
次回は、
②覚明行者にスポットを当てて立ち上がった講社(オリジナル)、
そして、
③本場である木曽の地で再興された義具行者による講社(真打)を紹介します。
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