普寛行者の弟子筋にあたる重要な行者を紹介しています。前回の圓城院泰賢に続き、今回は金剛院順明を紹介します。

金剛院順明も普寛行者の直弟子です。
かなりの功績がある人物ですが、大きくまとめ、
- 普寛講の普及に深く貢献した
- 改革者であり教育者であった
- 人格者でとても長生きした
以上について、紹介したいと思います。
順明とは?
金剛院順明(以下:順明行者)は、普寛行者の直弟子です。圓城院泰賢(以下:泰賢行者)よりも年上ですが、彼の弟弟子的立場だったと思われます。
生い立ち
順明行者は、埼玉県の両神山大神社を管理する「金剛院修験道場」の薄平家の生まれです。両神山は今でも修験の山として、また百名山としても有名な山です。
順明行者が13歳のころ、普寛行者が「金剛院修験道場」へ入門したのが出会いのようです。そのとき弟子入りしたとも伝わっています。二人の年齢が計算上合わなかったり、前後整合性が取れず少々曖昧ではありますが、同じ埼玉県の秩父生まれですから出会っていたのは間違いなさそうです。
第一回御嶽登拝に同行
いつしか順明行者は普寛行者へ弟子入りし、37歳のとき、普寛行者とともに第一回御嶽登拝に同行しました。
その後順明行者は、御嶽山を始め高野山や、四国霊場へも頻繁に巡教し、79歳までの45年間で、御嶽山へは39回もの登拝を行ったそうです。
普寛行者の亡き後、普寛霊場を堂主として守っていた泰賢行者が後を追うようになくなったため、その後を継いだのが順明行者です。
精力的な活動
初代・普寛講の痕跡②太元講でも紹介しましたが、明岳院広山(和田孫八)とともに御嶽講の普及に貢献した人物です。
王滝村の発展にもおおきく貢献しました。普寛講の世話や入山の事務、黒沢村との交渉など精力的に行っています。当時、王滝村は「御嶽山座王権現」の称号を使うことは禁止されていましたが、順明行者と明岳院広山のみ特別に許可されるいう一大旋風を巻き起こしました。
功績から見える順明行者
私が順明行者に持っているイメージですが、大胆な改革者かつ使命感あふれる教育者、さらにはサービス精神旺盛であったと思います。
武尊山を大胆に消した?!
普寛行者が祀っていた、【意波羅山大権現/御嶽山座王大権現/武尊山大権現】の神号を変更した人物としてこれまで何度か紹介してきました。武尊山は御嶽山から消えた!?

順明行者は神号軸を、【意波羅山大権現/御嶽山座王大権現/八海山堤頭羅神王】へ変えたことで知られています。
これって結構大胆じゃないですか?!順明行者が、武尊山よりも八海山を重要視したと捉えることができます。
普寛行者と、兄弟子である泰賢行者の業績を称えてのことだろうかと、私は思っています。(泰賢行者は八海山出身)
『朝暮果誦ちょうぼかじゅ』を再版とは?!
さらに順明行者は、使命感が強い人物であったと伺えます。
普寛行者が御嶽講そのものを作ったことは先にも述べてきました。(御嶽講って何?〇〇講の意味とは?)その際に使われていた勤行経本がありました。それを『朝暮果誦』と言って、おそらく普寛行者自身が作ったいわゆる御嶽講のテキストと思われます。
順明行者は享和3年に、『朝暮果誦』を再版したことで知られています。つまり、普寛行者が亡くなった後、普寛講がきちんと後世に伝わるようにしたのが順明行者なんです。
『朝暮果誦』は、少しずつ改変されながらもさまざまな御嶽講へ受け継がれていきました。『朝暮果誦』の内容が各御嶽講へ伝わっていることによって、逆に普寛講の系譜を辿ることができるわけです。
私が親しくさせていただいてる高針心願講の大鐘先達から以前聞いた話ですが、心願講の『御嶽山勤行要集』はこの『朝暮果誦』と酷似しているそうです。それによって、心願講は普寛系譜の御嶽講であるとの確信が得られたとお話しくださいました。
(心願講は、尾張で発展した御嶽講なので覚明系譜と思われがちです。)
サービス精神旺盛?!
加えて順明行者は非常に教育熱心で、在俗信者に対して親切に行法の伝授を行いました。それによって本来ならば、僧侶や神事に関わる者しかできないはずの加持祈祷や修行を、いわゆる一般市民が実践できるようになりました。
つまり、一般公開大サービスを行ったわけです。
このやり方は、のちの一心行者にも受け継がれます。しかし、これが結果的に幕府から警戒され、弾圧を招き、一心行者には悲劇が訪れます。
本庄市の普寛堂に残る痕跡
円満な人格
順明行者は、厳しい荒行を行いながらも、円満な人格を完成することを重要視していました。内面のケアを怠らなかったということでしょう。御嶽行者の修行のあり方を求め、多くの人々から尊敬されたそうです。
本庄の普寛堂には「所求円満道場」の額があり御嶽行者の生活規範となっています。

家業に励みつつ修行を行うことが御嶽信仰の本義であると、御嶽行者の間では伝えられていますが、そのあり方を確立した人物です。在俗生活を主体とした信仰は、この頃にはできていました。
お墓
普寛行者と泰賢行者と並んで、順明行者のお墓はあります。


版画

また普寛霊場には泰賢行者と同様に順明行者の版木も残されているようです。


開闢普寛法弟
金剛院順明法印
武蔵國本庄駅開闢堂
と書かれており、泰賢行者と対になっているようです。若くして亡くなった泰賢行者と対照的に、長生きした順明行者は老練なお顔で描かれているのが特徴ですね。
まとめ
順明行者についていかがでしたか?
数々の功績を残した上に、教育熱心で性格も良くて長生きで大往生な人生なんて、
賞賛に値しますね。
| 西暦 | 年号 | 普寛行者 | 順明行者 |
| 1731 | 享保16年 | 生まれる | |
| 1755 | 宝暦5年 | 24歳 | 生まれる |
| 1768 | 順明と出会う | 弟子入り?(13歳) | |
| 1792 | 寛政4年 | 御嶽山開山 (61歳) | 同行 (37歳) |
| 1801 | 享和元年 | 普寛入寂70歳 | |
| 1803 | 享和3年 | 朝暮果誦再版 | |
| 1805 | 文化2年 | (泰賢入寂38歳) | |
| 1806 | 文化3年 | 太元講創立 | |
| 1818 | 文政元年 | 武居氏に抗議 交渉 | |
| 1834 | 天保5年 | 剣ヶ峰に太元神像 | |
| 1838 | 天保9年 | 享年87歳 |
順明行者は木曽にもいくつか縁の場所が残されています。またそちらもご紹介します。
参考文献:
「御嶽の歴史」(生駒勘七)
「木曽御嶽信仰」(菅原壽清)
「木曽のおんたけさん」(執筆編集代表 菅原壽清)
「普寛堂宝物拝見記」(御嶽山開闢普寛堂 御嶽教滋賀大教会)


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