これまで普寛行者の弟子を紹介してきました。
普寛行者の優秀な弟子①泰賢行者とは何をした人?
普寛行者の優秀な弟子②順明行者とはどんな人物?
普寛行者の優秀な弟子③一般人から弟子入りした明岳院広山とは?
若くして亡くなった圓城院泰賢、
長生きして数々の功績を残した金剛院順明、
在家から弟子になった明岳院広山、
そして今回の「普寛行者の弟子シリーズ」4人目は、吉神行者です。
吉神行者とはどのような人物だったんでしょう?
普寛四天王とは?
じつはこれまで紹介した3名に今回の吉神行者を加えて、普寛四天王と呼ばれています。普寛行者の4大弟子のひとりというわけです。
吉神行者について分かっていることは意外と少ないですが、他の3人とは少し立場が違います。
- 吉神行者は元々王滝出身の道者で御嶽山に詳しかった
- 普寛行者の御嶽山登拝で案内を頼まれた
- 普寛行者の墓のひとつである花戸普寛堂を、子孫が代々守っている
特筆すべきは、吉神行者がもともと王滝の人間であり、普寛行者の死後も王滝で墓守をしていたということです。

王滝村の道者とは?
吉神行者は、俗名は小谷吉右衛門といい、木曽王滝村生まれで、木曽では道者であったという。
「木曽御嶽信仰」(菅原壽清)P176
名前は「木屋吉右衛門」とも記述されていたりします。
「吉右衛門は道者であった」と記述されていますが、「道者」とは何でしょう?
「どうじゃ」ではなく、「どうしゃ」と読むらしいです。
「道者」とは「道をいく者」「道を求める者」といった意味のようです。山に入るという点では「行者」と近いですが、「修行」よりも「歩く」ことに重点を置いている人だと考えてよいでしょう。
ちなみに
「行者」とは、「行をする者」つまり「修行者」を指します。
「信者」は、「信じる者」「御嶽山を信仰している者」のことを言います。
「信者」の多くは御嶽講に属しており、「先達」や「行者」の教えのもと「修行」や「登拝」を行います。
普寛行者の案内を務める
「道者」であった吉神行者(吉右衛門)が御嶽山に詳しいことは明白です。
吉右衛門は後に普寛の四天王といわれ吉神行者と称した人物である。
「御嶽の歴史」(生駒勘七)P195-196
(中略)
郷里王滝村にあった当時道者として御嶽登拝の経験をもっており、普寛行者がこれを見込んで第二回の登山から、案内人として強引に頼みこんでいることがうかがわれるものである。
吉神行者(吉右衛門)は、江戸に出稼ぎに出ており、その際に普寛行者と出会っていたようです。
「木曽御嶽信仰」(菅原壽清)には、「第1回目の御嶽山登拝にも同行していた(P167-168)」「第2回目より同行した(P176)」という二つの記述がありました。
(どっちなんでしょう?)
しかし、普寛行者が吉神行者(吉右衛門)を頼りにしていたことは間違い無いありません。地元の人物で、道にも詳しいのですから当然と言えます。
普寛行者の遺言
普寛行者の御嶽山登拝の案内を務めた吉右衛門は、その後も木曽で修行して修験の道に入り、吉神行者となったようです。文化8年(1811年)に亡くなりました。

王滝村の花戸普寛堂という場所に、普寛行者の墓塔が建っています。普寛行者のお骨が分骨されて祀られているんです。普寛行者は、存命中からこの地に分骨するよう遺言を残していました。

吉神行者の子孫は、そこに茶屋をひらき、登拝者の世話を行ってきたそうです。現在も吉神行者の子孫が、花戸普寛堂を管理しているそうです。花戸普寛堂については、別の機会に取り上げたいと思います。

他の四天王同様に、御嶽山の信仰に尽力した需要な弟子のひとりですが、吉神行者(吉右衛門)は御嶽山のお膝元である王滝での活動に専念した人物と言えるでしょう。

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