初代・普寛講の痕跡①高砂講

御嶽山の信仰

先回、覚明講かくめいこうのルーツを辿りましたが、今回は【普寛講ふかんこう】です!

普寛講ふかんこう御嶽講おんたけこう)を立ち上げるよう指示した普寛行者ふかんぎょうじゃですが、初代・普寛講ふかんこう御嶽講おんたけこう)はどんな講社だったんでしょう?

最も歴史ある御嶽講と言われている、二つの講社を紹介します!

江戸の高砂講

おさらいですが、【御嶽講おんたけこう】を作る指示をしたのは普寛行者です。普寛行者ふかんぎょうじゃは「講社こうしゃ」を結成することによって、御嶽信仰を組織的に全国へ広める目的がありました。

一番最初に組織された講社は、江戸の高砂講たかさごこうというそうです。
結成は寛政9年(1797年)の頃とされています。普寛行者ふかんぎょうじゃの御嶽山初登拝は、寛政4年(1792年)でしたから、その5年後というわけです。

この高砂講たかさごこうの名は、秩父屋歳次という人物が由来しています。彼は、普寛行者ふかんぎょうじゃを慕い、経済的援助をしていた人物で、江戸の高砂町たかさごちょうに住んでいたことに由来して名付けられました。今言うパトロン的な方でしょうか。高砂町たかさごちょうとは、現在の東京都葛飾区のあたりだと思われます。

普寛行者ふかんぎょうじゃは、御嶽山へ登る際、多くの弟子を引き連れていました。
その代表的な弟子であった
圓城院えんじょういん泰賢たいけん
金剛院順明こんごういんじゅんみょう
明岳院広山みょうがくいんこうざん】たちが普寛講ふかんこうを育てていったのです。

そうして、高砂講たかさごこうからの枝分かれや新たな講社の結成により、江戸を中心に全国へ拡大していったのです。

高砂を探せ?

高砂講たかさごこうという名前を聞いて、「あれ?どこかで聞いたような」と思い、ハッとしました。

金剛童子の「高砂」

下から見上げた写真

まだ紹介していませんが、御嶽山おんたけさん三十八史跡巡しせきめぐの王滝口霊場に「第十三番 金剛童子こんごうどうじ」という場所があります。この【金剛童子こんごうどうじ】が祀られている祠の横に、三つの銅像が並んでいます。

これがその写真です。この像の台座にそれぞれ、「江戸」「高砂」と彫られているんです。

台座に「高砂」の文字

私の出身地である兵庫県にも「高砂たかさご」という地名があるので、それで印象に残っていたのだと思います。「江戸」「高砂」の名前が長らく謎でしたが、「江戸の高砂講」という存在を知って、納得がいきました。パズルが完成したようで嬉しかったです。

この3つの像は、御嶽山の中でもかなり変わっているため、詳しくご紹介します。

三つの銅像の意味

蔵王大権現

まず一番左の像ですが、「蔵王大権現」と書かれています。この「蔵王」大権現という表記は御嶽山では大変珍しいんです。

蔵王と座王でも触れていますが、御嶽山では「蔵王」ではなく座王ざおう」という当て字が使われているからです。もとは、吉野の金峯山寺きんぷせんじの「金剛蔵王権現こんごうざおうごんげん」が由来で、御嶽山で信仰される過程で「蔵王」は「座王ざおう」へ変化しました。普寛行者ふかんぎょうじゃもそれをえて訂正しなかったといいます。

これは推測ですが、おそらく高砂講たかさごこうが活動し始めた頃はまだ、蔵王ざおう」と「座王ざおう」の混在期だったのかもしれません!

姿もかなり高砂講たかさごこうオリジナルで、いかつい!仁王さまのようです。

意波羅天宮

中央の意波羅天宮いばらてんぐうは、秩父の【意波羅山いばらやま】から来ていることは間違いありません。なんだか久しぶりな登場ですね?!

意波羅山いばらやま】は、普寛行者ふかんぎょうじゃの生まれ故郷で、彼が開山した山でもあります。詳しく知りたい方はこちら意波羅山をご覧ください。

今では、御嶽山の脇侍わきじ三笠山と八海山ですが、普寛行者ふかんぎょうじゃの頃は意波羅山いばらやま武尊山ほたかやまでした。この意波羅天宮いばらてんぐう像は、その貴重な痕跡といえます。

しかし、なぜイノシシなのか?
こればっかりは不明です。猪といえば摩利支天ですが、意波羅天いばらてんとしてイノシシを用いたのか?それとも摩利支天まりしてんと習合させた可能性も見えます。ちなみにこの像の少し上に、摩利支天像まりしてんぞうも祀られていて、高砂講が摩利支天も重要視していたと伺えます。

私は個人的にはこのイノシシ像を気に入っていて、なかなか愛着のある凛々しい姿をしていると思いませんか?ぜひ目に止めてみてください。

日之大権現

最後に右に位置する、日之大権現像ひのだいごんげんです。

江戸時代は、御嶽山にはたくさんの神仏が祀られていましたが(くわしくはこちら)その二本柱、双璧そうへきといえるのが、王権現おうのごんげん座王ざおう)と日権現ひのごんげんでした。

この日之大権現ひのだいごんげん日権現ひのごんげん)は、現在御嶽山に祀られている御嶽大神おんたけおおかみのひとり、少彦名命すくなひこなのみことを表しています。詳しくはこちら御嶽大神(おおかみ)大解説①に書いております。

少彦名命すくなひこなのみこと像はこれまでも紹介していますが、日権現ひのごんげん単体のモチーフは非常に珍しいと思います。

やはり高砂講たかさごこうのイメージなのか、いかつい描かれ方をしていると思います。

やはり修験道本尊の「金剛蔵王権現こんごうざおうごんげん」という「権現」のイメージが、当時から筋骨隆々で憤怒の表情をしたものだったんだと伺えます。

神仏分離令を境に権現は消えて、神さまに充てられるようになり、上写真のようなおだやかな様相に変化していったように思います。

さすが初代!

残念ながら高砂講たかさごこうについて、知識や文献を多く語れません。しかし、紹介した3つの銅像から「初代」「初期」とも感じられる痕跡が分かったことが大きいです。

  1. 蔵王ざおう」という文字が残っていること
  2. 意波羅山いばらやま」が祀られていること
  3. 日権現ひのごんげん」が単体で祀られていること
  4. 「権現」らしい描き方をされていること

もはや痕跡というよりは、御嶽山の信仰初期のこだわりを感じます!
御嶽山の王滝口登山道を歩かれる際は、この場所に是非とも注目していただけたらと思います!

「この高砂講たかさごこうが初代の御嶽講か〜」
意波羅山いばらやま普寛行者ふかんぎょうじゃの故郷だよね!」
蔵王ざおうや日の権現は、御嶽大神おんたけおおかみの昔の姿(神仏分離前)なんだよ」
という会話が出ると、立派な御嶽通おんたけつうです(笑)

②へ続きます。一緒に御嶽通になりましょう!

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