なぜ御嶽山に“阿波”?

御嶽山の信仰

唐突ですが、御嶽山には【阿波ヶ嶽あわがたけ】という場所があるのをご存知ですか?

阿波あわって阿波あわ踊りの阿波あわ?徳島県だっけ?」
「なんで御嶽山に徳島の阿波あわ?」
「見たことも聞いたこともない」??

知らなくても、きっとこの場所なら分かりますよね?
そう、8合目の女人堂が建つ場所です。ここに、

『阿波ヶ嶽の由来』と彫られた石板せきばんがあるんです!

今回はこの8合目にある【阿波ヶ嶽あわがたけ】についてお話しします!

阿波ヶ嶽はどんな場所?

御嶽山の黒沢口登山道を約1時間ほど歩くと、8合目の女人堂という山小屋に着きます。

この8合目周辺は、

  • ちょうど森林限界で景色が広がる
  • 山小屋がある
  • 御嶽神社の中社がある
  • 登山道の分岐がある
  • かつての女人結界がある
  • 金剛童子が祀られている
  • 神域との境である
  • ものすごい数の霊神碑がある

など、重要なジャンクションみたいな場所です。これまでも、女人堂の歴史女人結界金剛童子についてたくさん紹介してきました。

そんな8合目に広がる霊場一体を【阿波ヶ嶽あわがたけ】とも呼んでいます。

阿波とのつながり

冒頭でも書いた通り、阿波とは徳島県のことですが、御嶽山と徳島県はなんの関係があるのでしょうか?(この先は登場人物が多いため色分けしてします)

ここでも儀覚行者!

これには諸説ありますが、阿波のあい商人しょうにんたちが信州を訪ねた際に、御嶽信仰を知り、四国の地へ伝え広めたからだとされています。

あいはタデ科の植物から作られる染料せんりょうで、藍染あいぞめは江戸時代に大人気でした。

ここで、儀覚行者ぎかくぎょうじゃ(1769-1842)が関係しています。尾張で宮丸講を立ち上げた儀覚行者ぎかくぎょうじゃは、木綿問屋もめんとんやを営む豪商ごうしょうでもあったんです。

儀覚行者ぎかくぎょうじゃは、あい染料せんりょうの生産地であった阿波の商人しょうにんとの結びつきを重要に考えました。そして、遠い四国にまで渡って商売すると同時に布教活動をして、徳島県に御嶽講を伝え広めたというわけです!

宮丸講の儀覚霊神碑

修行、信仰、商売ともに熱心で手腕あふれる人物だったと伺えます。
宮丸講については覚明講はいつできた?❶-元祖系-を参照ください。

大活躍の儀覚行者ぎかくぎょうじゃですね。

西開行者と寿覚行者の出会い

そうした阿波の藍商人のひとりに、西開行者さいかいぎょうじゃという人物がいました。

天保8年(1837)あるとき西開行者さいかいぎょうじゃは尾張で重病にかかり死を待つ状態でした。そのとき、寿覚行者じゅかくぎょうじゃ(1784-1856)と出会い、加持祈祷かじきとうを受けて全快したのだそうです。その折に、西国で御嶽講を広めるよう託されたといいます。

それ以降、西開行者さいかいぎょうじゃは御嶽講の拡大に奔走ほんそう、天保12年(1841)には170人余りを引き連れて御嶽山へ登拝していたという記録が残っています。

ちなみに覚えてるでしょうか?寿覚行者じゅかくぎょうじゃとは儀覚行者ぎかくぎょうじゃの弟子で、福寿講ふくじゅこうの講祖です。
覚明講はいつできた?❶-元祖系-
つながりすぎてて怖いくらいです笑
福寿講ふくじゅこうはまた後ほど出てくるので覚えていてくださいね!

西覚行者と白川大神

その後、西開行者さいかいぎょうじゃのあとを継いだ人物を、西覚行者さいかくぎょうじゃといいます。

文久2年(1862)西覚行者さいかくぎょうじゃが御嶽山へ登頂した際に、「白川神社を阿波国で祀りなさい」と神勅しんちょくをうけます。西覚行者さいかくぎょうじゃたちは、御嶽神社と交渉し、御嶽山で3年間奉仕活動を行い、元治元年(1864)ついに阿波国に白川神社をお迎えしました。

白川さんについては以下の記事に詳しく書いています。
継母岳と継子岳の由来〜阿古多丸伝説〜
異議あり!白川大神は後付け?
黒沢口第十一番 白川大神

ちなみに、覚明行者が御嶽山の開山を決意したのは、四国の地にいたときでした。四国での巡教中(お遍路)に、白川権現から「御嶽山を開山せよ」との託宣たくせんを受けたのが始まりです。

このように、四国と御嶽山のご縁は、覚明行者から始まっていたと言えます。
さらに西覚行者さいかくぎょうじゃが徳島に白川神社を祀ったことで、一層つながりが深くなったんだと思います。

太祖福寿講とは

さて、ではここで阿波の【太祖福寿講たいそふくじゅこう】に注目してみましょう。
この8合目の【阿波ヶ嶽あわがたけ】には、いたる所に【太祖福寿講たいそふくじゅこう】の石碑や、霊神碑が見られます。

寿覚行者の影響

さきほど、西開行者さいかいぎょうじゃ寿覚行者じゅかくぎょうじゃ(1784-1856)の出会いを述べましたが、寿覚行者じゅかくぎょうじゃ儀覚行者ぎかくぎょうじゃの弟子であり【福寿講ふくじゅこう】の講祖として知られています。

石板にも「福」の字が彫られている

寿覚行者じゅかくぎょうじゃに救われて影響を受けた西開行者さいかいぎょうじゃが、
福寿講ふくじゅこう】の分派である【太祖福寿講たいそふくじゅこう】という講社を立ち上げたんです。

まとめ

さて、ここまでが予習です!

おおかたの登場人物が出揃いました!

  1. 儀覚行者ぎかくぎょうじゃと、阿波あわ藍職人あいしょくにんが影響しあった
  2. 寿覚行者じゅかくぎょうじゃは、儀覚行者ぎかくぎょうじゃの弟子で福寿講ふくじゅこうを立ち上げ、西開行者さいかいぎょうじゃ死地しちから救った
  3. 西開行者さいかいぎょうじゃは、寿覚行者じゅかくぎょうじゃに救われ、御嶽信仰を四国に広めた(のちの太祖福寿講たいそふくじゅこう
  4. 西覚行者さいかくぎょうじゃは、西開行者さいかいぎょうじゃの後を継ぎ、御嶽山の白川神社を四国へ勧請かんじょう分霊ぶんれい)した
西暦年号出来事
1766明和3年覚明、四国にて御嶽開山の神勅
1785天明5年覚明、御嶽登拝
1811文化8年〜儀覚(43歳)広山に師事
宮丸講創設
儀覚、阿波へ布教
1837天保8年西開寿覚(53歳)に救われる
1841天保12年西開、御嶽登拝
1862文久2年西覚、御嶽で神勅
1864元治元年西覚、白川神社をお迎え
1868明治元年明治維新

次回は、『阿波ヶ嶽あわがたけの由来』と彫られた石板せきばんの解読に移りましょう!

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