初代・普寛講の痕跡②太元講

御嶽山の信仰

初代・普寛講ふかんこう御嶽講おんたけこう)の中でも、最も歴史あると言われている御嶽講を紹介しています。今回はその続きです。

順明行者の太元講!

前回紹介した高砂講たかさごこうと並んで、木曽の御嶽講で最も古いと言われているのが太元講たいげんこうです。
(「最も古い」と言いましたがそれは昭和63年時点の話のため、現存しているかは不明です)

創立は文化3年(1806年)とも言われており、高砂講たかさごこうより後の結成にはなりますが、【普寛行者ふかんぎょうじゃ】の正統を継ぐ講社とされています。安政4年(1857年)の名簿が現存しているそうで、これはかなり貴重な資料といえますね。

結成したのは【金剛院順明こんごういんじゅんみょう】(以下:順明行者じゅんみょうぎょうじゃ)で、普寛行者の一番弟子のひとりです。
順明行者じゅんみょうぎょうじゃについてはこちら武尊山は御嶽山から消えた!?もご覧ください。

最古の石像あり!?

天保5年(1834年)
順明行者じゅんみょうぎょうじゃは【剣ヶ峰けんがみね】頂上に銅像を建立こんりゅうしました。
その銅像は太元神たいげんしんといいます。

太元神🟰座王

太元講たいげんこうでは、
御嶽山座王大権現おんたけさんざおうだいごんげん】=【太元神たいげんしん
としていたようで、その太元神たいげんしん】に由来して太元講たいげんこうは名付けられました。

その太元神たいげんしん銅像は、現在は再築され石像となっています。
安政3年(1856年)に、講元であった古畑新七によって再建されたらしく、
剣ヶ峰に現存する像の中では最も古いとされています。

天保五年(1834)に太元講社たいげんこうしゃ御嶽座王大権現おんたけざおうだいごんげんの銅像を建立こんりゅうされてから、頂上の岩座いわくらには幾多の神仏像、石碑が奉祀ほうしされるようになった。現存する御嶽座王大権現おんたけざおうだいごんげんの石像は安政三年(1856)に再建されたものである。

「朱印帳 御嶽山三十八史跡巡り」(木曽御嶽神社)

以前、黒沢口第二十二番 頂上奥社でも紹介していますが、その石像がどれか分かりませんでした。(剣ヶ峰奥社の宮司さんに聞いても分からないと言われていた!)

ようやく分かりました!

それがこの度ようやく分かりました!この一番奥にある石像にご注目ください。
この石像が、【太元神たいげんしん】つまり、御嶽山座王大権現おんたけさんざおうだいごんげんを表す石像ということになります。これは非常にめずらしく貴重です。

なぜかというと、御嶽山は明治の神仏分離令を境に、【御嶽山座王大権現おんたけさんざおうだいごんげん】→御嶽大神おんたけおおかみへ変化したので、

「座王」像が残っていることがすごいんです。

御嶽大神おんたけおおかみでもなく、その一人の国常立尊くにのとこたちのみことでもなく、白川大神しらかわおおかみでもない!

純粋な「座王」の石像!
御嶽山に残る、神仏習合の貴重な痕跡なんです。

剣ヶ峰へ行ってみよう!

では、実際に【御嶽山座王大権現おんたけさんざおうだいごんげん】像が剣ヶ峰のどこにあるか探してみましょう!

左に社務所が建っています。

よく見る正面図がこちらです。正面の御嶽神社へ手を合わせますよね。

まずは白川大神と大日如来像

この時一番目に入るのが、青銅で作られた一番大きい像だと思いますが、実はこの像は御嶽神社や御嶽大神とは無関係なんです!

左の青銅像は白川大神と言って、少し曰く付きの像なんです。あくまで独自の解釈ですが、気になる方はこちらを読んでみてください。

右の真新しい石像は、胎蔵界大日如来像です。

最古の「座王」像はこちら!

では肝心の【御嶽山座王大権現おんたけさんざおうだいごんげん】の石像はどこ?!

注目すべきはこちら!

そこにいましたか!

一番後ろだった!単体での撮影が難しい位置ですが、お分かりいただけましたでしょうか?

最も昔からそこに建っている訳ですから、よく考えたら一番後ろにいるのは当然ですよね。最も古く、つまり最も上部に位置しているわけです。

繰り返しますが、この【太元神たいげんしん】像が、剣ヶ峰に現存する像の中では最も古いとされ、また【御嶽山座王大権現おんたけさんざおうだいごんげん】像としても大変貴重な石像になります。

太元講の普及

普寛講ふかんこうは、主に江戸中心に広がったと言いましたが、太元講たいげんこうは木曽へも普及しました。

木曽で大きく発展した御嶽講は、前に覚明講はいつできた?❷-オリジナルと真打-で紹介した黒川覚明講と、この太元講たいげんこうなんです。かなりの影響力が伺えますね。

おわりに

今回代表的な、高砂講たかさごこう太元講たいげんこうを紹介しました。

弟子たちが頑張った!

これらの講社を筆頭に、普寛行者の代表的な弟子であった、
圓城院えんじょういん泰賢たいけん
金剛院順明こんごういんじゅんみょう
明岳院広山みょうがくいんこうざん】たちが、普寛講ふかんこうの結成や拡張へ尽力しました。この、泰賢たいけんさん、順明じゅんみょうさん、広山こうざんさんは普寛弟子の第一世代ともいうべき方々で、この方達のはたらきは非常に大きかったと思います。

そして広山こうざんさんの弟子であった儀覚行者ぎかくぎょうじゃの影響で、この後に覚明講が誕生したんです。(くわしくはこちら

孤高の覚明さん
組織的な普寛さん
両者の違いと繋がりは本当に面白いなと思います。

剣ヶ峰へ登頂した際は

剣ヶ峰へ登頂した際は、頂上奥社へ参って、先ほどの太元講たいげんこうの石像を探してみてください。御嶽山のご本尊ともいえる石像です。

怪しい雲行き・・・

このようにして御嶽講社は、
木曽を含む西日本中心の覚明講かくめいこう(黒沢口)と
関東、江戸を中心とした普寛講ふかんこう(王滝口)の
二波に分かれて発達してゆきました。

しかし、それらの発展の過程で、黒沢口と王滝口の関係は悪化していきました。円満を欠く好ましくない傾向とも、軋轢あつれきとも表現されています。

両社の確執についても今後、取り上げて参ります。

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