数ヶ月ぶりに木曽を訪ねた。まだ閉ざされたままの御嶽山を目にした瞬間、
「なんて荘厳1なんだ」と言葉がもれた。
今回はそれ以外に、的確な表現の言葉が見つからなかった。

2025年5月現在
御嶽山は噴火警戒レベルを2の状態で維持しているため、8合目より先へ立ち入ることは災害対策基本法より禁じられている。
そのため、通年ではゴールデンウィークから黒沢口を利用して登山することができるはずが、今年、その道は未だ閉ざされていた。8合目という場所において登山者を規制管理することが難しいと判断した木曽町によって、ロープウェイ山頂駅である7合目より先の登山道へ入ることはできない。

たとえ登れなくとも、御嶽山を拝するだけでも気持ちが違う。実際に、そのような場合や登れない信者のために、遥拝所という場所があるわけだ。
同じように御嶽山を想って、山麓や滝を訪ねた信者さんもいたようだ。

御嶽山を目指して
お山を目指して車を走らせる。国道19号線を南下して、木曽町へ入る。
御嶽山は、すぐには姿を現さない。
近づいても簡単に見ることはできない。
なんとも、もどかしい。
三岳へ入り一瞬、ものすごい存在感が視界に写る。
初めて見た者は、圧倒されるに違いない。
運転中は、要注意なのである。

その後も御嶽山が時折り視界に入る。
今日は見える日だ。
心が弾む。
好きではなく、畏れ

ついに、眼前に、
とびきりの存在感で現れる御嶽山。
その姿は、いつ見ても、圧倒される。
何度見ても、その姿に、圧倒される。
嬉しいはずが、いざ近づくと、
すこしゾッとする。
胸が苦しい。
心が痛い。
胸がギュッとする。
「なんて荘厳だ」
という言葉しか出なかった。
この感情は何か?
“胸がギュッとする”なんて
まるで恋の表現のようだ。でも恋なんてもんじゃない。
私はふと、この感情は、「畏れ2」ではないか?と思った。
この「畏れ」は、
「噴火で大勢の犠牲者を出した山だから、悲惨な光景が浮かんで心が痛い」
という理由だけではなさそうだ。
もっと違う何か、、、!
一瞬考えて、すぐに、答えが湧いた。
山岳信仰の原点
きっとこの畏れの気持ちは、「信仰」なんだ。
堂々たる御嶽山は、
あまりに畏れ多く、偉大に感じる。
私は御嶽山を前にすると、身が引き締まり、胸がギュッとする。
御嶽山を畏れ、敬う気持ち。きっとこの気持ちが、
「信仰」なんだと分かった。

「山岳信仰」とは、
このような感情から生まれたんではないだろうか。
お山の偉大な姿に、
麓から見た人々は堂々たる威厳を感じ、
感謝とともに畏れを抱き、頭を下げ、登拝し、供物を捧げたのだろう。
私は、御嶽山を好きとか、魅せられているというよりは、もはや「信仰」しているのだと今回改めて気づくことができた。

私にとっての御嶽山
もちろん、御嶽山が遠く見えたら、
嬉しい、懐かしい、愛しい気持ちになる。
かっこいい!素晴らしい!と興奮する。
いざ登ると、
「ありがとう」
「ただいま」
「今年もよろしくお願いします」
自然に言葉が出る。

私にとって御嶽山は、
信仰対象であると同時に、
家であり、家族であり、師であり、友人でもあるのだろう。
「なんでそんなに御嶽山が好きになったの?」とよく聞かれる。
たしかに御嶽山が好きだが、好きなだけではない。
畏れ多き荘厳なお山の虜なのだ。
おんたけさん。
今年も安全に登らせてください。

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