【普寛行者】は、王滝口の開山時から、弟子たちを幾人も連れて御嶽山を登拝しました。さらに第一回目の登拝から【御座】儀式を行い、御嶽山に多くの神々を【勧請】する構想を持っていました。このため【普寛行者】は【開闢の祖】と称されます。
今回は普寛行者に関する重要なキーワード【開闢】とその功績について取り上げます。
開闢(かいびゃく)の意味
【開闢】について改めて説明します。難しい漢字ですよね。書けないし読めないです。まず日常では使わない言葉です。
【開闢】の意味は、天と地の始まり、とか、世界の始まり、などという意味もあるので、「開闢以来(かいびゃくいらい)、、、、」なんて言い回しを聞いたことはないでしょうか?
【開闢】のもう一つの意味は、信仰の場として山や寺を開くことを指します。例えば「高野山を開闢したのは空海」ということになります。
ここでは後者の意味で使います。
よって【普寛行者】は、御嶽山を開闢したということになります。
数々の功績!
「開山」を除いた、【普寛行者】が行った代表的な項目をあげてみます。
- 【御座】儀礼
御嶽山に御座を取り入れたのは【普寛行者】だと言われています。第一回目の登拝から、弟子たちを連れて【御座】儀礼を行なっていたことが伝わっています。
【御座】儀礼については下記を参照
御座(おざ)拝見の感想は!?強力取材⭐︎番外編
御座見学でまさかの〇〇!強力取材②
↩︎ - 霊神信仰
霊神信仰を御嶽山へ根付かせたのも【普寛行者】です。彼が残した辞世の句の影響が大きいです。詳しくはこちら霊神碑とは何か?お墓との違いは?!
↩︎ - 神仏の【勧請】
御嶽山に祀られている数々の神仏は、ほとんどが【普寛行者】やその弟子たちが勧請した崇拝対象です。御嶽大神の前身である【御嶽山座王大権現】を確立させたのも【普寛行者】です。
なぜ変わった?蔵王→座王へ!
Roots.5【木曽の御嶽山】は神さまだらけ?!
現代の【神霊軸】一挙公開!
↩︎ - 地方霊山の開山
【普寛行者】は御嶽山の開山だけでなく、前後に数々の山を開山しています。そして開山した山神を新たに御嶽山へ勧請しています。
八海山と三笠山って、御嶽山とどういう関係?
普寛行者の故郷!?意波羅山とは!?
↩︎ - 弟子の育成
【普寛行者】の弟子は多く、【一心行者】と【一山行者】の他にも
【金剛院順明】(武尊山は御嶽山から消えた!?)
【明岳院広山】(御嶽【御影図】のご紹介!)
を以前紹介しました。弟子たちが御嶽信仰を繋いだことで【覚明行者】の功績も改めて見直されたという事実も大きいです。
↩︎ - 【御嶽講】設立
【普寛行者】は弟子たちに、それぞれに【御嶽講】を設立して先達を務めるよう【御座】儀礼を通して申し渡しています。そして【御嶽講】設立によって王滝村が経済的に潤うということを示唆しています。【普寛行者】ゆかりの地である埼玉県を中心に江戸、関東地方と【御嶽講】(いわゆる普寛講)は大きく発展しました。 ↩︎ - 【山丸三】の紋様
【普寛行者】が授かった、または【普寛講紋】とされる「山」「丸」「山」を使った紋様。御嶽山の至る所で見ることができます。
気になった山丸三の紋様-山丸三①-
【山丸三】の三位一体解釈!?
↩︎
偉大なり先見の明!
これぞまさしく【開闢の祖】!!
改めて、【普寛行者】の先見の明に大感服です!!
以上の数々の功績によって、【木曽の御嶽山】は山岳信仰の霊場として大きな発展を遂げるのです。【御嶽講】(いわゆる普寛講)は規模を大きく拡大し、御嶽山を訪ねる人々が増加、木曽もその恩恵を受けることになりました。【普寛行者】の故郷である埼玉県や地方にも御嶽山の地方霊場が作られました。
このように【普寛行者】は御嶽山を霊山として開山する意図を明確にもった上で王滝へやってきました。そのため、ただ開山しただけでなくさまざまな功績や思想を残したのが大きいですね!覚明行者と違って開山後も長く生きて活動したのも特徴です。
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