【覚明行者】の動きによって、1792年に御嶽山は百日潔斎から開放されました。それは【覚明行者】の命を懸けた願いでもありました。
しかし、開放されたと言っても、今のように誰でも自由に登れたわけではありません。あくまで「軽精進による登拝を許可する」なので、「軽精進」の義務はありました。
今回はその「軽精進」について!「重潔斎」と比べてどのくらい軽くなったんでしょうか?
「軽精進って何?」「具体的に何するの?」に迫りましょう!
ちなみにここで言う「軽精進」とは、「軽い精進潔斎」のことです。対して「百日間の精進潔斎」は大変なので「重潔斎」と言っています。だったら「軽精進」じゃなくて「軽潔斎」と言えばいい気もするんですが、なぜかこの「重潔斎」と「軽精進」と言う書き方が多いので、このまま使わせてもらいます。
おさらい
【覚明行者】の意を汲んで、1791年に黒沢村や王滝村の庄屋が連名で武居家に請願を提出しました。つまり『軽精進による登拝願い』の署名運動だと思ってください。各村代表たちの嘆願あって、ついに武居家は山村代官に許可を願い出ました。
そしてついに!
山村代官(山村蘇門)が『軽精進による登拝願い』に対して
「差支えなし(許可する)」
と返答したわけです!
軽精進6箇条?
その後、6箇条の登拝規定ができました。
その内容は少し解読が難しいのですが、はっきり分かったことは、
- 軽精進の登拝を許可する
- 入山期間は六月十四日から十八日の五日間のみで、武居家の先達で登拝すること
- 潔斎期間は二十七日間で、家族別火、水垢離三回、清浄な衣服を要す
- 女人は御湯(湯権現)までとする
- 入山料一人200文払うこと
潔斎期間中の行動に関しては、おそらく重潔斎の内容とほぼ同じでした。詳しくはこちらをご覧ください。
重潔斎にあった「同衾を禁ず(男女は寝所を別にする)」は見当たりませんでしたが、「月水の女に同座同談を禁じ・・・」という記述はあったので、なんらかの制限はあったかと思います。(女性の月経が関係している??)
比較してみよう
重潔斎との大きな違い、それは日数と金額でしょうか?
潔斎期間が100日間→27日間と大幅に短くなりました。
意外とまだ長いじゃないか?と感じてしまいますが、3ヶ月強が1ヶ月弱になったというのはやっぱり大きいですね。
そして入山料の200文、これは現代の約6500円に相当します。
え?!高い?いやいや、重潔斎の内容を思い出してください。
「その料 金三両二歩 百日の行用とす」を覚えていますか?「金三両二歩」とは「金三両半」、一両は現代でいうところ約13万円だそうなので、約50万円は用意できていないと実行すらできなかったということです。相当に裕福でないと手が届かない金額です。
50万円→6500円だとすると、かなりすごい大幅値下げ!!
もちろんこれは50万をそのまま納めていたわけではなく、「百日潔斎にはこれくらいお金を用意しないとできないよ」、と言った指針でした。27日潔斎でも、多少の出費は想像つきますね。
変わらない女人結界の位置
「女人は御湯までとする」という記述がありました。「御湯」とは御嶽山三十八座のひとつである「湯権現」を指しています。この場所は、重潔斎の時から変わりませんでした。
地図にあるように「湯権現」は「黒沢ミヨ」(宿坊)と同じ場所に祀られていたようで、この場所までしか女性は上がることを許されませんでした。
女人結界の位置が、徐々に金剛童子の場所まで上がって言ったことは、以前黒沢口第十四番 金剛童子の回で少し話しました。そもそもなぜ、女性は山へ入れなかったのか?
それは今後の投稿を楽しみにお待ちください!
参考文献:
「木曽のおんたけさん」(執筆編集代表 菅原壽清)
「御嶽の歴史」(生駒勘七)
「御嶽の信仰と登山の歴史」(生駒勘七)
「村誌 王滝」(王滝村)
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