これまで何度か江戸時代に遡って、当時の御嶽山における百日潔斎の様子、江戸時代の登山道や御嶽山三十八座を紹介してきました。その後、1785年に尾張の【覚明行者】が御嶽山を開山するのは、御嶽山の歴史において、とても重要なターニングポイントとなります。
しかし、いざ「開山」と聞いても、イマイチピンとこない??
そもそも、【覚明行者】が現れるずっと前から御嶽山は存在していて、すでに多くの行者が登っていたわけですよ。
なので今回は、
覚明さんの開山って、一体何をしたから開山なのか?
何がすごいことなのか?!
を一緒に考えましょう!
覚明行者のすごいところ!
以下は例えですが、イメージしてみてください。
「超上級者しか登れなかった山を、
初心者でも登れるようにしてくれた」
「超大金持ちしか入れなかった場所に、
庶民も入れるようにしてくれた」
どうですか?イメージ湧きましたか?
つまり!結論から言わせてもらうと【覚明行者】は、
御嶽山を誰でも登れるように、レベルを下げてくれたんです!
(技術面、体力面、金銭面、全てにおいて!!!)
めっちゃありがたい人でしょ!!
覚明行者の目的
【覚明行者】がやりたかったこと、それは
御嶽山を誰でも登れるようにしたい
当時、御嶽山登拝に定められていた『百日間の重潔斎』が体力的にも金銭的にも厳しすぎて、とても一般民衆には手が届かなかったため、
簡単に登れるようにしよう!!
という運動をしていたんです。しかし、そう簡単に許可が下りるはずもなく、1785年に【覚明行者】はなんと無断登拝を強行して、既成事実を作ってしまいました!しかも続けて三度も!のべ100名以上の信者を連れて上がったそうです!
余談ですが、三蔵法師として有名な玄奘も似たような強行手段に及ぶ場面があります。信念のためには危険も厭わないという強い意志の表れかもしれません。昔は今とは比べ物にならないくらい、理不尽で不平等な法律が多かったでしょうから、強行手段を取らざるを得なかった、というのは時代の背景なんでしょうね。
覚明行者の死後
罰を受けながらもめげなかった【覚明行者】さんですが、強行登拝の翌年である1786年に、ニノ池でお亡くなりになりました。登山道の改修の最中だったようで、入定という表現をされています。
その後信者たちは、
覚明行者の意思を受けつぎ、御嶽山の一般開放運動を続けました。
百日潔斎を取り仕切っていた神職者(武居家)や代官(山村蘇門)がそれを許すはずもなく、取締りが強化されたりと一筋縄ではいきませんでしたが、1791年に近郷十ヶ村の庄屋が連名で武居家に請願書を提出しました。
これは今でいう署名運動ですよね。
請願書の内容をものすごく簡単に書くと、
「百日間の精進潔斎は大変だから、軽精進で登れるようにしてください!」
そして、ついに武居家を通して山村代官から下された返答は、
「差支えなし(許可する)」
とうとう1792年に軽精進による登拝許可が下りました。
覚明行者の意思を継いだ住民たちの勝利ですね!!
これには、御嶽山が一般化されることによる経済的な恩恵を無視できなかったからだと言われます。今風に言ってしまえば、
「観光地化されることで町が潤う(儲かる)」
という経済的効果が絶大だったと思われます。
覚明行者は開放の祖!
まとめですが、
私が思う最も偉大な功績は、
御嶽山を重潔斎から解き放った!
覚明行者亡き後も、その解放運動が途絶えなかったのが大きいです。それだけ、多くの人々の心を捉えていたんだということがわかります。とても素晴らしく、また魅力ある人物だったに違いありません。
また結果的に、木曽町へ経済的恩恵を集めて、のちの【開闢の祖】と言われる【普寛行者】が王滝村を訪れるきっかけを作りました。(詳しくはこちら)
【普寛行者】が「開闢の祖」と言われているせいか、区別してか【覚明行者】には「開山」という言葉がよく使われています。(普寛行者の開闢についてはこちら)
私個人としては、【覚明行者】のことを「開放の祖」といった方が分かりやすい気がします。重潔斎を行った一部のものにしか許されていなかった御嶽山を、言わば誰でも登れるように開放してくれたんです。
この、覚明行者による御嶽山の一般開放によって、のちに御嶽信仰は全国的な信仰へと拡大されていくことになりました。しかし、全く自由に山へ行き来できるようになったわけではありません。あくまで「軽精進」が必要なんです。
次回、軽精進での登拝方法について詳しく話したいと思います。
参考文献:
「木曽のおんたけさん」(執筆編集代表 菅原壽清)
「御嶽の歴史」(生駒勘七)
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