覚明行者にはお弟子さんがいない?

御嶽山の紹介

覚明行者かくめいぎょうじゃ】と【普寛行者ふかんぎょうじゃ】と聞けば、
おそらく御嶽山に関わっている人なら誰でも当然の如く知られたお名前だと分かりますよね。

そしてもう少し詳しい人なら、【四大講祖よんだいこうそ】に含まれるもう二人、
一心行者いっしんぎょうじゃ】と【一山行者いっさんぎょうじゃ】の名前も聞いたことあるはずです。この二人は【普寛行者ふかんぎょうじゃ】の弟子に当たります。これまで何度か登場していますが、【普寛行者ふかんぎょうじゃ】の直接の弟子は他にもたくさんいます。

四大講祖の図像

そこで一つの謎が浮上しました。
「どうして【覚明行者かくめいぎょうじゃ】のお弟子さんはいないの??」です。

覚明行者の目的は?

先に回答すると、
覚明行者かくめいぎょうじゃ】には直接の弟子がいなかったと考えられます。

覚明行者かくめいぎょうじゃ】に全く弟子がいなかった、というわけではないと思いますが、木曽へは単身で入ってきています。
さらに御嶽山開山の許可を待たずに亡くなってしまった、という事実が大きいです。

覚明行者かくめいぎょうじゃ】の目的はあくまで御嶽山の「開山」であったので、後世に御嶽講を立ち上げようなどとは考えていなかったんじゃないでしょうか。そのため【覚明行者かくめいぎょうじゃ】の死後、特に御嶽山に関わる弟子たちの大きな活動はなかったと思われます。

対して【普寛行者ふかんぎょうじゃ】は、王滝口から初登拝した際から多くの弟子を引き連れておりました。そして御嶽山を霊山として発展させようという構想を持っていたため、死後も弟子たちによって受け継がれたのです。そのため【普寛行者ふかんぎょうじゃ】の弟子系列で特に功績のあるとされる【一心行者いっしんぎょうじゃ】と【一山行者いっさんぎょうじゃ】が【四大講祖よんだいこうそ】に数えられています。【普寛行者ふかんぎょうじゃ】が【開闢かいびゃくの祖】と言われている所以ゆえんです。

覚明行者は単身で木曽へ!

ではもう少し詳しく詰めてみましょう。

愛知県の尾張出身の【覚明行者かくめいぎょうじゃ】は、単身で木曽へやってきましたと思われます。
1772年に【木曽きそ御嶽山おんたけさん】の一般登拝を願い出ますが、なかなか許可が下りませんでした。
その後も【覚明行者かくめいぎょうじゃ】は木曽に留まり、地元住民の協力のもと活動を続けますが、請願は却下されるばかりでした。

そしてついに意を決した【覚明行者かくめいぎょうじゃ】は1785年、3回もの一般登拝を連続して強行しました。この時同行したのは、地元住民や尾張の信者など合わせて百人以上であったとされています。多くの人を導き、また慕われていたのが分かりますね。

覚明行者の最期

強行登拝の時、覚明行者は六十七歳であったとされています。木曽での開山活動はすでに13年もの長きに渡っており、また、信者を連れての連続登拝は過酷だったでしょう。その上、強行登拝の罪を受けて20日以上の拘束を受けたので、かなりの体力を消耗したと推測されます。

参考までに全くの余談ですが、同じ時代にモーツアルトやベートーヴェンがいます。モーツアルトは35歳(1791年)で死亡、この時代の長生きの部類に入るベートーヴェンですら56歳(1827年)で死んでいます。

そんな身で再び登拝を続け、翌年1786年登山道の工事を続けていた最中に【覚明行者かくめいぎょうじゃ】は【入定にゅうじょう】しました。死因は病気が原因であるとも言われています。(【入定にゅうじょう】についてはこちら

一般登拝の許可が下されるのはこれより7年後の1792年になります。
そして覚明講が立ち上がるのは、さらに約50年も後のお話です。

普寛行者ふかんぎょうじゃ】の弟子の一人に【明岳院広山みょうがくいんこうざん】がいます。
その【明岳院広山みょうがくいんこうざん】に弟子入りした【儀覚ぎかく行者】が、のちに覚明行者の故郷である尾張で最初に御嶽講を立ち上げるのですから、なんとも深いご縁だなあと感じる次第です。

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