近年、長野側から【木曽の御嶽山】へ登るには、大きく二つの登山道があります。それは黒沢口(ロープウェイ側)と王滝口(田ノ原)と呼ばれたりもしています。
- 黒沢口からの登山道(黒沢ルート)を開山したのが【覚明行者】
- 王滝口からの登山道(王滝ルート)を開山したのが【普寛行者】
この御嶽山を語る上で必須項目の【覚明行者】と【普寛行者】についてですが、
「比べる」とか「比較」なんて畏れ多い、、、しかしながら両者の違いを明確にしたい。
というわけで今回は「照合」という言葉を使わせてもらいました!
両者の年譜
【覚明行者】
享保三年(1718年)
-現在の愛知県春日井市で誕生(一説に1714年)
明和三年(1766年)
-四国巡礼中に白川権現より託宣(48歳)
明和四年(1767年)
–恵那山 開山(49歳)
安永元年(1772年)
-木曽入り?(54歳)
天明五年(1785年)
-登拝強行(黒沢口)(67歳)
天明六年(1786年)
–入定にて覚明堂へ埋葬(68歳)
寛政四年(1792年)
–軽精進による登拝の公認
【普寛行者】(本明院普寛)
享保十六年(1731年)
-現在の埼玉県秩父市で誕生
寛政二年 (1790年)
-覚明行者の登拝を知る(59歳)
-【三笠山】(群馬県上野村)開山
寛政四年 (1792年)
-2月 【意波羅山】(埼玉県大滝村)開山
-6月 御嶽山登拝強行(王滝口)(61歳)
寛政六年 (1794年)
-【八海山】(新潟県南魚沼市)開山
寛政七年 (1795年)
-【武尊山】(群馬県片品村)開山
寛政十一年(1799年)
-王滝口登拝が公認(68歳)
享和元年 (1801年)
-病にて入寂(70歳)
共通点
まず両者の共通点ですが、
それはズバリ!
- 御嶽山を軽精進でも登れるようにしたかった
- 許可を待たずに強行登拝した
当時、御嶽山登拝に定められていた「百日間ないし七十五日による重潔斎」が言ってしまえば厳しすぎて、とても一般民衆にはできなかったため、
「御嶽山の軽精進による一般登山公認求む!」
これが二人に共通していた大きな目的です。そして強行登拝した結果、のちに許可が下りました。
相違点
次に相違点ですが、
それは【普寛行者】の方にあります。彼はただ開山するするだけでなく、加えて以下を行なっています。
- 一回目登拝から弟子を連れて【御座】儀式をしていた
- 御嶽山に、新たな神仏を【勧請】した
- 弟子たちによって講社を組織した
- 開山によって木曽が経済的恩恵を受けるというビジョンを持っていた!
これらによって、【普寛行者】は【開闢の祖】と言われています。開闢とは、信仰の地として山を開くことを意味します。詳しい普寛行者の開闢については次回取り上げます。
接点
最後に接点です。
【普寛行者】が木曽を訪れたとき、すでに【覚明行者】は亡くなっていた(入定)ので、
二人は会ったことはないと思われます。
しかし【普寛行者】は【覚明行者】の存在を知っていました。実際に【覚明行者】の影響を受けて、御嶽山を開闢しているからです。
もう一つの接点は前も話しましたが、【儀覚行者】です。
【覚明行者】と同じく尾張の地に生まれた【儀覚行者】は、
御嶽山へ登拝した際【普寛行者】の直接の弟子であった【明岳院広山】に弟子入りし、尾張で御嶽講を開きます。これがのちの覚明講の一端となります。「儀覚」の「覚」の文字から、【覚明行者】の名を取って付けられたと考えて間違いないでしょう。
終わりにタラレバ!
【覚明行者】の開山の話を聞いていなければ、もしかしたら【普寛行者】は木曽へ来ていなかったかもしれないし、そしたら今多くの人に信仰されている霊山としての【木曽の御嶽山】は存在しなかったでしょう。
そして【普寛行者】が御嶽山を霊場として広めていなければ、のちに【覚明行者】が取り上げられることもなかったかもしれません。
以上、照合終わります!
両者どちらも御嶽信仰には欠かせない人物であり、霊神さまです!
参考文献:「木曽のおんたけさん」(執筆編集代表 菅原壽清)
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