継母岳と継子岳の由来〜阿古多丸伝説〜

御嶽山の紹介

御嶽山にはいくつかのピークがあります。最高峰の剣ヶ峰を始め、王滝頂上、摩利支天山などがありますが、今回のお題はそんな継母岳ままははだけ継子岳ままこだけの由来」です。
継母岳ままははだけは剣ヶ峰の西側にそびえる山ですが、現在登山道はなく立ち入ることはできません。遠目に見えるその姿は荘厳な山容をしています。一方、継子岳ままこだけは御嶽山の最北側にある山で、たおやかな山容です。高山植物が豊富で高天原たかまがはらと言われている場所です。継子岳は剣ヶ峰からは少し距離があります。

左が剣ヶ峰、右奥の急峻な山が継母岳
一番奥の小高いピークが継子岳、右のピークは継子岳Ⅱ峰と言われている

この【継母岳ままははだけ】と【継子岳ままこだけ】、名前が特徴的というか因縁を感じますよね。継母ままははというと、どうしても白雪姫やシンデレラといった童話を連想させますが、この御嶽山の【継母岳ままははだけ】にもまさしくそんな逸話が残されていました。

阿古多丸あこたまる伝説(継母岳と継子岳)
昔、京の白河宿衛しらかわすくね少将頼永(重頼とも)の子阿古多丸あこたまるは、継母と心よからず、子どもながら一人旅に出て木曽路を通ろうとした時、板敷野(旧木曽福島町板敷野)にて病にかかり、ここで亡くなりました。息をひきとる時、「御嶽の山へ葬りたもれ」と遺言がありました。人々はそれを哀れと思い、山の麓へ葬ってやりました。
 都にいた阿古多丸あこたまるの継母岩永姫いわながひめはこれを伝え聞き、子の霊を弔うために木曽に身をひそめて世を送ったといわれます。
 今の御嶽山の継子岳は阿古多丸あこたまるの霊を祀り、継母岳は岩永姫いわながひめを祀ったものだと伝えています。

「王滝村の昔ばなし」二の巻より

この「阿古多丸あこたまる伝説」の元は、「御嶽山蔵王権現縁起おんたけさんざおうごんげんえんぎ通称【御嶽縁起おんたけえんぎ】とされています。
御嶽神社里宮創祀そうしの記述に基づいて流布されてきました。時代も所蔵も分かれているため【御嶽縁起おんたけえんぎ】もいくつか存在しますが、「延長年間えんちょうねんかん黒沢里宮くろさわさとみや創祀説そうしせつ」が有力です。伝承では御嶽神社の創祀そうしは774年とされています。御嶽神社の黒沢里宮では、阿古多丸あこたまるの命日を祭礼日としています。

この「延長年間えんちょうねんかん黒沢里宮くろさわさとみや創祀説そうしせつ」延長六年(929年)の【御嶽縁起おんたけえんぎ】に、先ほど紹介した昔話より、もう少し詳しい記述があったので要点を追記しておきます。

 白河宿衛しらかわすくね少将頼永(重頼)は四十を過ぎても子供ができず、清水寺へ祈願していました。やがて、利生御前りしょうごぜんという美しい姫と、三歳離れて阿古多丸あこたまるという男子を授かります。しかし数年後、北の方(実母)は病気の末に亡くなってしまうのです。
 その後、白河少将は後妻として新たに北の方(継母)を迎えますが、彼女は阿古多丸あこたまるをことのほか憎み、乳母と結託して阿古多丸あこたまるを陥れようとします。北の方(継母)は、阿古多丸あこたまるが父へ贈った供物に毒を仕込み、罪を着せて白河少将をも取り込みました。何とか死罪は免れますが、ついに阿古多丸あこたまるは都を追い出されてしまうのです。
 木曽路にて旅の疲れで病に倒れた阿古多丸あこたまるは、
不孝の子、身に縁りのあるはずもなし、唯死後はあの大山の麓に塚を築いて印の松を植えてくれ
この世を去ります。享年十五歳であったと言います。
 後日、乳母から濡れ衣の真相を聞いた白河少将は、娘の利生御前りしょうごぜんとともに阿古多丸あこたまるを追って旅立ちます。道中木曽を訪ねた折、阿古多丸あこたまるの墓前へ案内され、利生御前は嘆き自害してしまいます。白河少将も後を追い亡くなりました。その後も弔いをした側近や僧侶も自害します。
 挙げ句の果てに、これを聞いた北の方(継母)も、自らの所業の浅ましさを反省し、乳母と共に自害することになります。
 これらの悲劇を知った都の帝によって、白河少将親子は御嶽山へ祀られることになったそうです。

一説には“利生御前りしょうごぜんと白河少将は、阿古多丸あこたまるを弔うために御嶽山を目指した”“利生御前は志なかばで病死、その場所が後日「女人結界」となった”“白河少将はライチョウの導きで頂上まで辿り着いて弔いをした”という話もあるようです。

阿古多丸あこたまるを信じて守らなかった白河少将を、ひどい父親だと思うのは私だけでしょうか…..?そして後追いという悲劇、、、死んで償う、死んで詫びるという風習があったのかもしれません。

あくまで個人的感想ですが、彼らの悲劇や祟りを恐れて、神さまとして御嶽に祀った人々の心情も理解できます。学問の神さまとされる太宰府天満宮の菅原道真すがわらのみちざねも、祟りの畏れから神さまにされた存在です。

そのような経緯で白河少将は、白川大神しらかわおおかみ】として御嶽山に祀られており、【覚明行者かくめいぎょうじゃ】に「御嶽を開山せよ」と託宣を下した存在であると言われています。父親としては我が子を守れなかった白河少将ですが、自分の行いを悔い改めたことで、【白川大神しらかわおおかみ】という神さまになったということでしょう。今では白河家ともども、御嶽山と麓に住む人々を見守ってくれている存在です。

雲に浮かぶ継母岳は荘厳です

木曽の板敷野には、実際に阿古多丸あこたまるを祀った塚がありました。この塚は「阿古太丸」と書かれていますね。

案内してくれたのは私の御嶽師匠(生きた歴史!御嶽レジェンド紹介!)です。何を隠そう「阿古多丸あこたまる伝説」を最初に教えてくれたのが師匠です。

阿古多丸あこたまるを想うと哀しい気持ちになります。継子岳ままこだけへ登ったら、そんな阿古多丸あこたまるに想いを馳せ、皮肉にも対照的な継母岳ままははだけを見つめて阿古多丸あこたまる伝説を思い出してみましょう。

参考文献:
「御嶽の歴史」(生駒勘七)
「王滝の昔ばなし」二の巻 より

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