前に継母岳と継子岳の由来〜阿古多丸伝説〜という記事で、【継母岳】と【継子岳】の由来や【阿古多丸伝説】について紹介しました。
ですが、伝説や名前というものは意外と曖昧に伝わっています。山の名前も地名も、間違って伝わって本来と違う意味になってしまうことが多々見受けられます。
今回再度取り上げた【継母岳】と【継子岳】ですが、「昔の地図では、二つの山は逆に書かれている」と聞いたことがありました。その時は、「地図が間違っている」という認識でしたが、実際はどうなのか調べてみることにしました!
そしてまさかの真相?に辿り着きました!
入れ変わり説の真相
先に真相から言ってしまいます。
今私たちが認識している【継母岳】と【継子岳】は明治時代以前は逆の位置でした!
ややこしいので、今回は【継母岳】を「西御嶽」、【継子岳】を「北御嶽」と呼ぶことにします。
なぜか、大正時代に入った頃に、入れ変わって現在の名前に落ち着いたようです。
北御嶽 | 西御嶽 | |
明治16年以前 | 継母岳 | 継子岳 |
大正7年以降 | 継子岳 | 継母岳 |
まずは現在位置を確認しよう
私が所持している大正7年の地図と、写真で二つの山の位置を確認してみましょう。
写真は剣ヶ峰とその西に聳える【継母岳】(右)で、現在は立ち入ることができません。
地図とは視点が違うため同じアングルになっていませんがご容赦ください。
【継母岳】(西御嶽)には【伊弉諾尊】(イザナギ)【伊弉冊尊】(イザナミ)が祀られていたようです。
写真が北御嶽にあたる【継子岳】(奥)です。平らな部分が前回紹介した【高天ヶ原】です。
地図では一番右側に描かれることが多いです。【継子岳】の位置に、アルマヤ天と大六天が祀られているのが分かります。
さとテラス三岳へ
ではまず入れ変わりを直接確認するため、御嶽山ビジターセンターさとテラス三岳へ行ってみましょう!
展示されているパネルにご注目です。
御嶽信仰について書かれているんですが、写っている地図と注意書きにご注目です。
明治16年印刷の御嶽山地図には、【継母岳】と【継子岳】の位置が入れ違っていると書かれていました!単なる記載ミスだったんでしょうか??
誤記載じゃない!?
原版は下記リンクから石室山荘のホームページをご覧ください。ホームページの地図は複製・転載が禁じられていますのでご注意ください。
私が所持している大正7年版の地図と比べて、二つの山が入れ変わっているのが分かりましたか?
確かに明治16年版地図には、先ほど紹介した西御嶽の位置に「マゝ子岳」、北御嶽の位置に「マゝ母岳」と記載されているのを確認できました。
てっきり、地図の誤記載かと思っていましたが、そうではなかったんです!明治以前の江戸時代の御嶽山の絵地図をいくつか確認しましたが、やはり「マゝ子岳」と「マゝ母岳」の位置は、今とは逆で書かれていました。
つまり、明治16年版地図と大正7年版地図を境に、二つの山はなぜか入れ変わってしまったんです。そしてこの【継母岳】と【継子岳】にはさらに別の名前が隠されていたので、考察も含めて
次回紹介します!
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