今回は、今までの記事で幾度と書いている【神仏分離令】について絞ってまとめたいと思います。
上の写真は、これまでも紹介してきた江戸時代の御嶽【御影図(みえいず)】と、明治以降の御嶽【神霊軸】です。どちらも【木曽の御嶽山】に祀られている神仏を図像化したものです。
神仏習合の時代
まず、先ほど左に配置した【御影図】をご覧ください。1800年代の江戸時代、この【御影図】の中心は当然ながら【御嶽山座王大権現】でした。当時の御嶽山における本尊だったわけです。そして脇侍として【三笠山刀利天宮】と【八海山大頭羅神王】が据えられていますね。
(八海山と三笠山については八海山と三笠山って、御嶽山とどういう関係?はこちらもどうぞ)
神仏分離令の施行
ところが、明治時代(1868年)に入り「神仏判然令」いわゆる【神仏分離令】や【修験道廃止令】が施行されます。神社と寺院、神と仏は明確に分けねばならず、【神仏習合】の象徴である【権現】は許されませんでした。もちろんその【権現】を本尊として崇める修験道も然りです。
そうしてほとんどの寺院や権現社は、全て【神道】(神さまを崇める、いわゆる神社)へ統一するという大掛かりな体制がしかれました。木曽ももちろん例外ではなく、明治2年には黒沢と王滝の両里宮はそれぞれ、【神社】へと社号を改称しました。そして【権現】や【本地仏】は全て取り除かれたんです。
これによって明治以降の【御影図】がガラリと変化して新しくなりました。最初に紹介した明治以降の【御嶽神霊軸】からは【御嶽山座王大権現】が消え、最上部には日本古来の神々が据えられています。この通り、主祭神は【御嶽大神】(国常立尊・ 大己貴命・少彦名尊の三位一体)となり、現在に続いてるというわけです。
【御嶽山座王大権現】→【御嶽大神】(国常立尊・ 大己貴命・少彦名尊の三位一体)
【八海山大頭羅神王】→【八海山大神】(国狭槌尊)
【三笠山刀利天宮】 →【三笠山大神】(豊斟渟尊)
この件は以前の異議あり!白川大神は後付け?でも説明しましたね。気になったらまた振り返ってみてください。
神仏分離令による影響は?
御嶽山においては、各地の修験霊山の神仏分離過程にしばしばみられる、過激な「廃仏毀釈」による混乱はみられませんでした。ただ、御嶽山の場合、明治維新による打撃は神仏分離それ自体にあるのではなく、江戸時代まで御嶽信仰を支えていた政治的、宗教的背景の喪失と、それに基づいて行われていた御嶽信仰の組織化が頓挫したことが深刻でした。
「木曽のおんたけさん」より
つまりどういうことかと言うと神仏分離令によって、“それまで御嶽信仰を支えてきた権威やバックアップがなくなってしまった”ということのようです。そして、御嶽講の指導者たちは還俗(↔︎出家)を余儀なくされ、また主要な儀礼(御座)も違法であるされてしまいました。この過程で、なんとか御嶽信仰を継続させようという思いから創立されたのが【御嶽教】です。
【御嶽教】木曽本宮は、木曽福島に所在しています。木曽福島の道の駅から、木曽川を対岸にかなり目を惹く出立なので見たことある方もいるでしょう。この【御嶽教】に関しては、また改めて紹介したいと思いますが、〇〇教といった怪しい宗教団体ではありません。御嶽信仰由来の立派な神社なので、ぜひ訪ねてみてください。
参考文献:「木曽のおんたけさん」(執筆編集代表 菅原壽清)
写真提供:高針心願講 大鐘龍昇先達さま
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