今回は【武尊山】という山について触れます。【武尊山】と読みます。群馬県にある百名山ですが、武尊を「ほたか」と読める人はかなり少なく、「ほたか」というと「穂高」を連想させるため、中々残念な扱いを受けてる山に感じます。普段は混乱を避けるため【上州武尊山】と呼んでいます。標高2158mの古い火山で、群馬が抱える名峰です。
この【武尊山】は、御嶽山の開闢の祖である【普寛行者】(1731-1801)が開山した山です。
御嶽山の開山が1792年6月で、【武尊山】の開山は1795年だそうです。
上記の写真のを見るとわかりますが、【普寛行者】が御嶽山を開闢した際の神号の並びは、
【意波羅山大権現/御嶽山蔵王大権現/武尊山大権現】となっています。そう、最初に勧請したのは【武尊山】と【意波羅山】だったんですね。これが時代とともに徐々に変化していきます。
(ちなみに【意波羅山】の開山は1792年2月、詳しくは普寛行者の故郷!?意波羅山とは!?を参照ください)
次は【普寛行者】の弟子である【金剛院順明】の真筆である神号軸です。この頃にまず、【順明行者】(1755-1838)によって、
【武尊山】が消えて【八海山】が勧請されたと思われます。
そして【普寛行者】最後の弟子と言われる【一心行者】(1771-1821)の真筆による神号軸を見ればわかりますね。
ここで現在の【三笠山/御嶽山/八海山】の並びが誕生したことが伺えます。【三笠山】も【八海山】も共に同じく【普寛行者】が開山した山であり、現在の【木曽の御嶽山】でも大変重要視されています。詳しくは八海山と三笠山って、御嶽山とどういう関係?をご覧ください。
この頃の特徴をしては、
【三笠山刀利天宮/御嶽山座王大権現/八海山大頭羅神王】といった神仏習合の表記になっています。
これらがさらに変化するのは明治時代です。
明治政府による【神仏分離令】によって、御嶽山も権現号を廃し、【御嶽神社】と社号を改称しました。
【御嶽山座王大権現】→【御嶽大神】(国常立尊・大己貴尊・少彦名尊の三位一体)
【八海山大頭羅神王】→【八海山大神】(国狭槌尊)
【三笠山刀利天宮】 →【三笠山大神】(豊斟渟尊)
こうして今の御嶽山の主祭神は【御嶽大神】とされています。
結論ですが、
現在使われている神号【三笠山/御嶽山/八海山】の並びは、
【普寛行者】の弟子である【一心行者】由来のものだと言えます。
【武尊山】と【意波羅山】が御嶽山から消えてしまったのは残念な気もしますが、【意波羅山】がある埼玉県大滝村には【普寛行者】のお墓がありますし(意波羅山を探せ!③普寛神社)、【武尊山】には【御嶽山】や【普寛行者】が祀ってあります。しっかり残っていることを確認しました。
次回は、群馬の名峰【上州武尊山】を訪ねて【普寛行者】の足跡を辿ります!
普寛行者を辿って【上州武尊山】へ乞うご期待!