御嶽【御影図(みえいず)】のご紹介!

御嶽山のルーツ

こちらは、以前【高針心願講たかばりしんがんこう】の先達さまより提供いただいた資料のひとつ、
御嶽山の【御影図みえいず】です。神仏や貴人を描いた図のことを言います。

描かれている神仏から、時代はおそらく1800年代〜普寛行者の弟子の時代から明治の神仏分離令以前〜1868年、ものだと推測できます。

おさらい

ここでまずおさらいですが、【普寛行者ふかんぎょうじゃ】と【一心行者いっしんぎょうじゃ】の【神号軸しんごうじく】を確認しましょう。
以前の記事武尊山は御嶽山から消えた!?でも紹介しましたね。

まず左の写真から、

「なきがらは いつくの里に埋むとも 心御嶽に有明の月」(辞世の句)
意波羅山いばらやま大権現/御嶽山座王大権現おんたけさんざおうだいごんげん武尊山ほたかやま大権現】木喰もくじき 普寛ふかん

この神号の配置【意波羅山いばらやま御嶽山おんたけさん武尊山ほたかやま】は【普寛行者ふかんぎょうじゃ】(1792年開山〜)のものでした。
意波羅山いばらやまについては普寛行者の故郷!?意波羅山とは!?を参照ください)

次に右の写真、

普寛行者最後の弟子と言われる【一心行者いっしんぎょうじゃ】の時代には、
配置が【三笠山刀利天宮みかさやまとうりてんぐう御嶽山座王大権現おんたけさんざおうだいごんげん八海山堤頭羅神王はっかいさんだいずらしんのう】へ変化していました。

この配置は、神仏分離令以降の呼び名になった現在の構図(三笠山/御嶽山/八海山)でも用いられていますね。(八海山と三笠山って、御嶽山とどういう関係?より)

御影図の解説

それでは本題の【御影図みえいず】に入りましょう。
上段には先ほど紹介した、【一心行者いっしんぎょうじゃ】が用いていた神号の神さまが描かれています。

三笠山刀利天宮みかさやまとうりてんぐう御嶽山座王大権現おんたけさんざおうだいごんげん八海山堤頭羅神王はっかいさんだいずらしんのう
この三神で「御三方」と呼ばれています。

そして中段に開闢かいびゃくの祖【普寛霊神ふかんれいじん
下段には【制吒迦童子せいたかどうじ不動明王ふどうみょうおう矜羯羅童子こんがらどうじ】が描かれています。この不動明王と眷属については次回御嶽【神霊軸】現代ver.を同定チャレンジ!で説明します。

明岳院広山とは?

ここでもう一つの【御影図みえいず】と比べてみましょう。

この二つの【御影図みえいず】は、下段の【不動明王ふどうみょうおう】の部分をのぞいてそっくりですね。

右の【御影図みえいず】は【明岳院広山みょうがくいんこうざん】の真筆によるものです。【普寛行者ふかんぎょうじゃ】の弟子の1人で俗名を和田孫八わだまごはち(〜1831年享年)と言いました。普寛最後の弟子と言われる【一心行者いっしんぎょうじゃ】よりも長く存命しており、普寛行者ふかんぎょうじゃに長く随身してきたとあります。普寛行者ふかんぎょうじゃの初回御嶽山登拝にも同行していたようです。

これをみるに、もしかしたら明岳院広山みょうがくいんこうざんが現在の【神号軸しんごうじく】の構図(三笠山/御嶽山/八海山)を作ったのかもしれません。
その後、下段の不動明王と眷属たちが追記されたんだと思います。

神さま大集合

このように神仏や霊神をイメージしやすくするため、図像化してきたんだなと伺えます。その後も、時代とともに新しく勧請された神さまや、神仏分離によって変化した神さまを追記していき、【御影図みえいず】はどんどん賑やかに描かれていきます。御影図みえいず】というよりは【御嶽神霊軸おんたけしんれいじく】といった方がいいかもしれません。

それでは次回は、【御嶽神霊軸おんたけしんれいじく現代ver.を同定チャレンジ!で解説いたします!

写真提供:高針心願講 大鐘龍昇先達さま
参考文献:
「村誌 王滝」(王滝村)
「普寛堂宝物拝見記」(御嶽山開闢普寛堂/御嶽教滋賀大教会)
「御嶽山王滝口 信仰資料拝見記」(王滝口 御嶽神社/御嶽教滋賀大教会)
「木曽御嶽信仰」菅原壽清すがわらとしきよ
「木曽のおんたけさん」執筆編集代表 菅原壽清すがわらとしきよ

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