女人堂は、現在御嶽山にある小屋の中では一番古くからあることで知られています。それは女人堂のホームページにも書かれていますし、疑いもしていません。
がしかし、一度調べてみたくなったのでお付き合いください。
今回取り上げている女人堂とは、あくまで御嶽山の8合目に位置している山小屋『女人堂』を指しています。
女人堂の紹介!
女人堂は、覚明行者が開いた黒沢道の、ちょうど8合目に位置する山小屋です。6合目の中の湯登山口から約2時間、ロープウェイを利用すれば約1時間でたどり着くことができます。
この8合目より、御嶽山は森林限界を越えるので展望も開けて開放感があるため、女人堂は多くの登山者が休憩しています。休憩スペースも広く、強力や歩荷が背負子をそのまま立てて置ける専用のベンチもあります。
また阿波徳島の御嶽講霊神碑が多く並び、霊場としても盛んな場所です。展望と霊神碑が相まって「御嶽山へ来た!」と体感できる場所かもしれません。
ここより約10分登った位置に、【金剛童子】が祀られており、そこにある大岩が【女人結界】でした。明治初年まで、女性はそこまでしか上がることを許されませんでした。
女人堂には、御嶽神社の中社があります。御嶽山を遥拝もできる造りになっており、当時のお籠り堂を思わせます。
おこもり堂としての女人堂!
女人堂は、御嶽の山小屋の中で最も歴史が古く、明治初年から 山小屋として営業しています。それまでは非難(訂正:避難)小屋や修験者のおこもり堂として存在していました。
女人堂ホームページhttps://ontake-nyonindo.jimdofree.com/女人堂紹介より
このことから、おそらく一番最初に山小屋として営業したのが女人堂だと思われます。
明治初年というのは=明治元年(1868年)というわけではなく、おそらく「明治初期」という意味合いであると推察します。
実際のところは明治以前(江戸時代)からおこもり堂として存在していたと分かりますね。
女人堂は創業170年!?
前回記事の通り、女人禁制が解かれたのは、
明治9年から明治11年の間(1876〜1878年)であることを考察しました。
この約2年の間に【女人結界】は自然消滅しています。
そして、幕末には【女人結界】は7合目であったという記述もありました。
つまり、おこもり堂として8合目の女人堂が機能していたのは、少なくとも
幕末1854年〜1876年(明治9年)の22年間
なのではと考察しました!
西暦 | 和暦 | 事項 | 女人結界の位置 | |
1792- | 寛政4年 | 軽精進登拝許可 | 6合目 | おこもり堂 |
1854- | 安政元年 | 幕末(ペリー来航) | 移動中 | ↓ |
1868- | 明治元年 | 明治維新 | 8合目 | (山小屋営業) |
1877 | 明治7年 | 『王滝村誌』記録 | 継続中 | ↓ |
1879- | 明治11年 | 遊女の登拝記録 | 撤廃! | ↓ |
幕末からあると思えば、相当古いですね。
(ちなみに幕末以前から女人用のおこもり堂はあったと思われます。今回は、8合目の女人堂に限定して話をしています)
ー女人堂まとめー
・おこもり堂として
1854年-1876年(明治9年) 約22年間
・山小屋として
1876年-2024年の現在まで 約148年間
女人堂は約170年もの間あそこ(8合目)に建っていると言うわけですね!
(おそらく建て替え、改修工事などは行っています)
挑戦者あらわる?!
・・・・ところが、調べるうちに9合目の石室山荘も相当昔からあることが判明しました。
「あれ?もしかして、石室の方が古かったりして?」
小屋の主人に直接聞けなくもないんですが、調べるのが面白いので、ひとまず我流で行けるとこまで行ってみます。
というわけで、「女人堂vs石室!どっちが古い?」についても今後をお楽しみください!
参考文献:
「御嶽の歴史」(生駒勘七)
「御嶽の信仰と登山の歴史」(生駒勘七)
写真提供:
長野県製薬株式会社 角間 洋平 氏
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