【入定】(にゅうじょう)と読みます。なかなか日常とはかけ離れた言葉ですが、いったい御嶽山と何の関係があるんでしょうか?
ヒントは【覚明行者】です。
そう実は以前、山丸三と真言密教-山丸三③-の時にもお話はしてるんですが、今回は【入定】という言葉に絞って書きたいと思います。
入定の意味は?
【入定】とは、
坐禅をした状態で「生きたまま永遠の瞑想に入る」ことを意味します。(別名【禅定】ともいいます)
承和2年(835年)、真言宗の開祖である弘法大師・空海が最初に【入定】したのが始まりとされており、真言密教から由来している言葉です。弘法大師・空海が【入定】している地が、高野山の聖地「奥の院」です。
「弘法大師さまは、今も奥の院で坐禅を組んで瞑想している」という認識で高野山は存在しています。【生身具】という儀式で、毎日弘法大師へ食事が運ばれ、衣服の交換もされています。現実的に考えるならば、当たり前ですがもう生きているはずがありません。しかしながら、「死」という表現をしないのがこの言葉の重要なところだと思います。
この【生身具】という儀式を、高野山はおよそ1200年も続けているわけですから驚きです。強力取材⭐︎番外編でも話した、【御座】を信じる心と近いなと感じます。信じる人たちがいて、信仰を続けているのだとしたら弘法大師の【入定】は真実なのだなと思います。
余談ですが、この【入定】の考え方は、【即身仏】にも影響が出ています。【即身仏】とは、苦行の過程で木乃伊(ミイラ)化した僧侶のことですが、この【即身仏】への過程を【入定】と呼んでいます。主に東北地方で見ることができます。
【即身仏】となる苦行は、私が知るにもっとも恐ろしい苦行です。詰まるところ「死ぬための修行」なのですから、当然とも言えます。以前ニノ池に佇む建国姫龍神とは?!で【千日回峰行】について少し話しましたが、【即身仏】はさらに壮絶なのでここで詳しくは語りません。気になったら検索してみてください(汗)
空海との関係
次に、黒沢口を開いた【覚明行者】について辿ってみましょう。
【覚明行者】(1718-1786)は、愛知県春日井市の生まれで、九歳のころ得度(出家)しています。結婚して一度は還俗したものの、三十歳のころ再び仏門へ入り、その後巡礼修行に出たとされています。この巡礼修行というのが、四国八十八ヶ所の巡礼です。いわゆる「お遍路」ですね。
四国八十八ヶ所の寺院は、弘法大師・空海が修行し開創(寺を開く)したと伝えられており、これらの寺院を巡礼するのが「お遍路」です。結願(達成)すると、高野山へお礼参りする習わしがあります。
現代も四国八十八ヶ所を巡る「お遍路」は、歩きはもちろん車や観光バスでも可能なので大変人気です。しかし元は、主に修行僧などが中心に巡礼修行していました。
話は戻りますが、その【覚明行者】も四国八十八ヶ所の巡礼修行をしていました。そして、七度目の巡礼修行中に、白川権現(白川大神)の託宣を受け、御嶽山開山を決意するのです。そしてこれを機に「覚明行者」と名乗ることとなります。
【覚明行者】が、とくに真言密教を信仰していたという記述は見当たりませんが、当時の行者たちにとって弘法大師の存在はとても影響あるものであったと伺えます。
覚明行者は入定した?
白川権現(白川大神)の託宣を受けた、【覚明行者】は、御嶽山開山のため1772年に木曽へ入ります。そこで、御嶽山へ一般登拝ができるよう活動を始めます。
なかなか許可が下りない中、1785年に一般登拝を強行したため、二十一日間投獄されることとなります。
しかし保釈後も再び登拝を続け、地元協力者たちと登山道改修の事業を進めていました。
そして【覚明行者】は、翌年の1786年、登山道改修の事業完遂を見届けることなくニノ池の畔で「立ち往生」したと伝えられています。志半ばで亡くなったんだというのが伝わりますね。亡骸は現在の覚明堂の岩場に葬られたそうです。
この、【覚明行者】が事実上亡くなった地である二ノ池の畔は、
【覚明入定之地】
と呼ばれています。
「弘法大師さまは、今も高野山で坐禅を組んで瞑想している」という考えと同じく、
「覚明さまは御嶽山の一般開放を望み、今も人々を救うため座禅を組まれている」
という解釈のもとに
この場所は【覚明入定之地】とされているのだと思います。
「失う」にはあまりに惜しい存在、「亡くなった」わけではなく「入定された」、という表現をした当時の人々の心情を汲みたいですね。
参考文献:
「木曽のおんたけさん」(執筆編集代表 菅原壽清)
「朱印帳 御嶽山三十八史跡巡り」(木曽御嶽神社)
「ちょっと真言宗」高野山真言宗布教研究所
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